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8月, 2023の投稿を表示しています

これは痩せるわ

やまおりさんがダイエットの話をしていたので、というわけではないけれど、この数日仕事の運動量が多くてマジで痩せそうである。 ただでさえ頭の中でなにかしらずっとぐるぐる考えてる人間なので基礎代謝というかベースのエネルギー消費量が多く、食事に関して言えば非常に燃費が悪い。 そこへ、繁忙の波がきた。今まさに開催中のイベントが大変盛況なためどんどん商品を送り出して回していかねばならず、そのハブである本社部隊は大わらわとなっている。全体の動きを見渡して指示を出す司令塔の頭脳労働も大変だが、実働部隊の肉体労働もなかなかのもの。 実働部隊といえば下っ端、つまり私である。 この数日はひたすら梱包発送に追われていた。あちこちから飛んでくる指示をこぼさないように目を光らせ、横から差し込まれる依頼は可能なかぎり瞬殺して、荷詰めしたダンボールを積み上げていく。ついでにとっ散らかった作業スペースの交通整理をしながらいま何が進行中なのかなんとなく肌で感じておいて、引っかかってるところのフォローにまわる。 頭脳労働で役に立つにはまだちょっとかかりそうだが、物量を捌くのは得意だ。あと、「なんかよくわからないけどたのしそうな空気」を出すのも。なにか横から言われたらとりあえず「はーい!」と元気よくお返事しておく。お返事の良さだけは母からのお墨付き(返事だけで動かないという皮肉が込められていたが)で、これはもう習性のようなものだ。明るい声が聞こえる現場はうまく回ることが多い。経験則で知ってるから、お通夜のような空気でも元気に挨拶することにしている。いつか周りの人もつられてくれるので、日を追うごとにやりやすくなる。 そう、明るく元気に振る舞うのは誰のためでもなく自分のためなのだ。 どよーんとして愚痴っぽく沈んだ空気に突っ込んでくのなんか絶対に嫌なので、腹から声を出すのはもはや環境整備の一環なのである。 とはいえ、元気よく動き回るというのは、著しくカロリーを消費するものだ。動き回っているから汗もかく。それに、帰りが遅いのでどうしても食事の量を絞らねばならず、結果として減量に向かっている気がする。不本意というわけではないが、意図したわけでもない。販売職で大きい店舗にいたときも、久しぶりに会った同期に「痩せた?」と心配されたものだが、あの頃と状況が似ている。なんだか懐かしい感覚だ。 忙しかったりやることが多いのは

食いしん坊のダイエット

 いつか必ず〈やる〉だろう予感はあった。日記のお当番をすっかり忘れておりました……。  誠に申し訳ない。遅ればせながら、本来記すはずであった8/29のことを書いておこうと思う。  昨日は在宅仕事で、日のほとんどをパソコンの前で過ごした。一日の総歩数は三十二歩であった。食事を摂る机からパソコンデスクの前までが片道おおよそ十歩であるから、数字の面からしても、昨日の私がパソコンの前で、いかに太い根っこを生やしていたかが窺える。  この人間、どうして在宅時の総歩数などという何の役にも立ちそうにない数字を把握しているのか。  きっかけは、ダイエットである。  詳しい数値は伏せるが……ここ数年の私の体型は、健康という観点からするとまったく問題がない。と同時に、まあ、ちょっとお肉が減ったところでなんの支障もない。そのくらいのところをずっと維持してきた。気が向けば腹筋やスクワットくらいはするし、小説執筆という趣味を長く続けるためにもストレッチは念入りにやっているが、健康維持より他のことには目を向けていなかった。もちろんダイエットにも。  ところが最近、パートナーが新しいスポーツを始めたのだ。  隣でスポーツをやっている人がいると、自分も何かやりたくなってくる。元運動部のサガである。  けれども私には、今すぐ新しいスポーツを始めるような時間の余裕はなく――そこで目をつけたのがダイエットである。理想の姿を目指して肉体を調整していくという意味では、ダイエットもスポーツの一種のようなものだろう。たぶん。  さて、とあるダイエット専門のパーソナルトレーナーさん曰く――痩せるために必要なのは食事の管理と運動。せっかく運動をするなら、ダンスやジョギングなどの有酸素運動よりも、筋トレにしっかり時間を割いたほうが効率よく痩せることができるらしい。しかし現代人、毎日コツコツ筋トレに励めるかというと難しいこともある。そういう場合は有酸素運動だって決して無駄ではなく、まあだいたい目安として、一日に一万歩くらい歩けていると安心ですね――ということらしい。  ……と、このように受け売りっぽさ満載の文章を続けると「パーソナルトレーナーさんと契約したの?」と思われるかもしれない。していないのだ。前述のダイエット知識は、とあるパーソナルトレーナーさんがyoutubeに投稿している動画から仕入れたものである。  この

通った後には草も生えない

 先日の日記で、見たら頼んでしまう呪いの話をしたが、大阪に行ったときのミックスジュースもそのたぐいだ。 暑い中を歩いた末にたどり着いた喫茶店で、もっと炭酸の効いたさっぱりした飲み物が欲しかったような気分はどこへやら、メニューにあるなら頼んでいる。バナナが強いかパイナップルが強いか、すりおろしたリンゴが中にいるか、とろみのあるマンゴーを入れるところもあり、味は店によって少しずつ違う。 そういうわけで、土曜日からさっきまで関西にいた。ミックスジュースは2回飲んだ。 日記らしく今日のことだけを書くと、年々苦手になる「人間のふり」をしばらくして、京都でクイニーアマンとフィナンシェと551の豚まんと焼売をたくさん買って帰りました、チャンチャン。 ……で終わってしまうのだが、人間のふりについては別に今回話したくないのよ。フィナンシェつながりで、26・27日のことも少し(少し?)書き残させてほしい。 26日 出立のための東京駅では土産店を巡回し、まだ手に入れていないフィナンシェを買い漁った。 東京の手土産としてよく見かけるようになったバターバトラーをご存知だろうか?そのバターバトラーと親元(名をシュクレイと言う)を同じくする焼菓子ブランド(東京駅構内で言うならザ・メープルマニア、東京ミルクチーズ工場、ドロス、ココリス)にはたいてい商品ラインナップにフィナンシェがある。ただ複数個入の箱買いのみなので、普段はダブリ余りが気になって、なかなか二の足を踏んでしまう。何しろお世話すべきフィナンシェは家にたくさんいる。とりあえず1個あればいいのだ。だからイベントの差し入れや、旅で気が大きくなったこのときとばかりに買ってみる。シュクレイの他にも今年の4月からフィナンシェを始めた『東京チューリップローズ』もチェックだし、カルビーが東京駅にしか出していない『じゃがボルタ』でじゃがいもスナックの季節限定味も買わないといけないし、これから旅に出るというのに、箱がいくつも入ったまあまあ大きな紙袋を持つことになった。 夕方に西日本支社の同期と待ち合わせた。 2人の小さな娘がいる母親なので難しいかと思ったが、タイミングよく上の子はパパとプール、下の子を実家に預けて時間を作ってくれたのだ。前回会ったのは上の子がハイハイもできないほど幼いコロナ禍前だった。日頃仕事で連絡を取り合うこともなく、Xもインスタグラムも

空飛ぶ列車と海のお風呂

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8月も終わろうかという日曜日、ようやくちょっとした遠出をすることができた。 といっても日帰り、鈍行列車でぼんやり行って帰ってくるだけの日程である。今週は職場がバタついていた上、余計に背負い込んだ仕事まであったから金曜の昼には白目を剥きかけており、土日は完全休養に充てることを心に決めていた。土曜はすべてを放り出して存分に昼寝して、明けて日曜日、どうやら動けそうだと判断しておでかけに踏み切ったのだった。 そもなぜ鈍行で熱海かというと、温泉に入りたかったのと調べてみたら片道三時間もかからないとわかったこと、それと青春18きっぶを使いたかったためだ。 一枚の切符にJR普通列車一日乗り放題の枠が五つ並んでおり、春季・夏季・冬季の年三回発売される特別企画乗車券である。私はこれを学生時代より旅の伴としており、ここ数年はいろいろあってあまり出番がなかったのだが、九月にこれで二日間かけて大阪に向かうという計画を立てており、なら残り三枠はどうする、どこかへ行かねば!という謎のタスクが発生していたのである。 あんまりぼんやり家を出たのでうっかりいつものとおり定期で駅に入ってしまって戻ったり、スムーズに乗り換えられるよう経路を調べておいたはずが別の駅でポッと降りてしまったり、まあいろいろやったが東海道本線にどっしり座ってしまえばこっちのもんである。持ってきた本を読んだりうとうとしたり、進むにつれて乗客もまばらになっていくから快適さは増すばかり。ほどよくふかふかの椅子を乗車料金だけで占拠できるなんて、空いてる電車というのは最高のくつろぎ空間だと思う。 温泉についてからランチにするか、あるいは小田原あたりでおさかな食べようかな、と考えていたのだがふと思い出した。小田原の港、早川港はアジが有名で、アジフライがまじで美味いのだ。学生時代、研究活動のからみで足繁く小田原に通っていた頃、仲良くなった市役所のお姉さんが連れて行ってくれたのは場外市場の食堂。あの頃は朝からやってたので、朝ごはんにがっつり定食を食べた記憶がある。 そうだ、あそこへ行こう。 青春18きっぷのいいところは、どこで乗り降りしようが料金を気にしなくていいところである。「あ、ネコチャン!」って電車を降りたってなんの影響もない。到着時間が遅れるだけのことで、一人旅には最適の切符なのだ。 わくわくしながら早川駅で降り、長いホームにわずかし

胡桃ごろっごろ

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 12時から18時まで、本屋のお店番をしていた。  わたしは東京・吉祥寺で〈招文堂〉という本屋の主催をしている。店の主なら「店主」を名乗るのが正式だと思われるだろうが、私はあくまで主催である。というのも、招文堂の店主さんは私の他にもいる。しかも複数名が存在しているのだ。  招文堂は、文芸同人誌特化のシェア型本屋である。  普通の本屋であれば、店を所有するのは店主ただ一人であり、どんな本をどうやって売るかも店主が決定する。しかしシェア型本屋では、一つの本棚ごとに異なる人間が〈一棚店主〉となって、自分の棚で販売する本の選定をしたり、本屋そのものの運営に関わったりなどする。一棚ぶんの小さな本屋がいくつも集まって一つの店舗を形成する、それがシェア型本屋なのである。  そのシェア型本屋の、文芸同人誌特化型が招文堂だ。ここで本棚を所有できるのは文芸同人誌の作者および発行団体のみで、所有した本棚で運営できる書店も〈自著専門本屋〉に限られる。  そういう、ちょっとばかし縛りのきついシェア型本屋の発起人が私であり、このシェア型本屋特有の「運営者が複数人いる」という形態によって、私はかたくなに「運営でも経営者でもなく、本屋の主催である」と言い張っているのであった。  そんな事情が前提にあり、今日である。  店のカウンターの前に、立派な胡桃の大袋が山と積まれていた。  ざっと見ても、一袋で1kgは下らないような――  招文堂は「スモールノジッケン」というシェアスペースの中にある。このシェアスペースには希望者がレンタルできるパン小屋があり、招文堂はそのはす向かいに位置している。そしてパン小屋の隣に据えられているのが、二つの大きな業務用冷凍庫だ。その冷凍庫の上に、今日は大量の胡桃たちが鎮座していたのである。  いや、鎮座というより、待機といったほうが正しい。冷蔵庫にも冷蔵庫にも入っていないということは、この胡桃たちはまもなく使われるのであろう。  しずかな店内、カフェテリアから香るエスプレッソ、ときどき漂うナポリタンのケチャップ。そんなはずはないとわかっているのに、鼻腔に届く気がする植物性の香ばしくも、もったりと密度のある甘い油。  いやおうなしに食欲を刺激される場所で、物言わぬ胡桃たちと相対し三時間ほど。とうとう私は、カフェテリアの主に声をかけてしまった。 「あの胡桃、どうしたんですか?」

呪いの注文

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 映画のために待ち合わせたのは、有楽町の交通会館地下にある昔ながらの喫茶店だった。 店内は薄暗く、背もたれの低いモケット張りの椅子が広い空間にたくさん並んでいる。 初めて行く純喫茶で頼むものは決まっている。 ・ピザトースト ・ナポリタン ・バナナジュース 上記3つのいずれかがメニューにあればそれを注文する。 記録を付けているわけではないが純喫茶にはたいていあるので、高確率で頼むことになる。 そういう呪いにかかっている。 2回目の来店なら、別の料理を頼むことも許すが、初めてならばよほどのことがない限りこれである。メニューでその文字を見つけた瞬間、はい脳死で注文。 ピラフやオムハヤシやチョコバナナサンデーやレモンジュースな気分のときもある、あるはずだと思うのだが、いまジャムトーストを食べないと絶対にこじらせて今後三日三晩にわたりそれを食べ続けてしまうであろうというような強力な呪詛でない限り、打ち勝てない。 本格ピザとは別物のピーマンやハムの載った厚切りピザトースト、 やわらか太麺のべったべたに甘いナポリタン、 牛乳と果肉の比率で店の個性が出るバナナジュース 好きは呪いだ。 こういった呪いは他にもある。 ・インドカレーならバターチキンカレー ・中華なら担々麺 これにナポリタンを並べるともう「だいたい“だいだい”色」な食べ物である。 数を食べているだけあって、自分好みのナポリタンやバターチキン、担々麺の傾向が分かっている。ナポリタンにいたっては、自作でだいぶ理想に近いものが作れるようになった。好みがわかっているなら、今回の店のは好みとはちょっと違うかもしれないと察して避けられそうなものだが、呪いなので結局はぶつぶつ言いながらも頼んでしまう。 今日の喫茶店のピザトーストは、チーズたっぷりで耳に硬さのあるパンなことがよかった。 おいしい食べ物を知るたびに、呪いは増えていくような気がする。 焼肉屋ならコムタンを頼むとか、蕎麦屋なら鴨南蛮とか、焼鳥屋なら、ベトナム料理屋なら……うわぁぁ、怖いよう。

うつくしきもの

うつくしいものには理屈がある、と思っている。 形が揃っているとか、整ってみえるとか、色がきれいとか、美的感覚の根っこにあるのは究極のところ生命の安定感みたいなものかなあと思う。ぐらぐらと不安定だったり色のくすんだものって、危険だったり状態が悪いことが多い。ものすごく原始的な美意識って、いのちと結びついているような気がする。 なぜこんなことを言い出したかというと、今日まさに「美しさと理屈」について奮闘してきたからである。 いまの仕事はイベント運営やグッズ販売と関わりが深い。作り上げた空間やアイテムに対してお客さんから対価をいただく、そういう業界である。だから展示や陳列は大変重要な要素で、まがりなりにも販売の仕事を経験してきたのでそのへんはいやというほど身にしみている。見せ方ひとつで、お店の印象やお客さんの動き、もちろん売上にだって影響が及ぶものだ。 さて。普段はおもに事務仕事に従事しているのだが、現場の動きをちらりと覗いていたらなんだか苦戦しているのが見てとれた。品物の並べ方とか、ポスターを貼る位置とか、そういうことである。席の近い人々も「これはいけない」と渋い顔をしているが、ある程度経験のある人たちはみな身動きが取れない状況だった。 動けるのはぺーぺーが一人だけ。 つまり、私である。 幸か不幸か手元の作業は一旦落ち着いていたし、なんとかしたい気持ちもあった。だって、もっと良くなることが目に見えているのだ。まだできることの少ない新人が、これまで無駄に重ねてきた経験を活かすチャンスでもある。その場にあるものをなんとか組み合わせてそれっぽく見せるのは仕事でも同人誌即売会のスペース設営でもさんざんやってきたし。 なんかできそうな気がしてくるじゃないか。 そばにいた数人に意見を求め、あーだこーだとアイデアを出し合ったのち胸にしっかりと抱え込んで、許可を得て意気揚々と現場に向かった。まだまだ暑い午後四時すぎの都心、うっかり乗る路線を間違えそうになり汗を拭き拭き、覚えたての道のりをたどる。 道中、いろんなことを考えた。いきなり出てきて煙たがられるだろうなとか、あれだけ自信満々に飛び出してきてどうにもならなかったらどうしようとか、そういう不安を押し流すようにぐるぐると作戦を考える。時間は限られている。びびっている場合ではないのだ。 それにしても、やっぱり現場はたのしい。 到着してか

目覚めの話

 ここはいっそと思い立ち、朝一番で日記を書いている。  仕事を終えたら家を飛び出し、お酒を呑んで美味しいものを食べ、帰宅後はすぐに眠ってしまうことが確定している今日なのだ。  とはいえ朝である。  起床してから今この時までに発生したイベントといえば、起床と朝食くらいのものだが……朝食については少し前の日記で触れたように思うので、ここでは起床について書いてみよう。  私は目覚まし時計が鳴らなければ、いくらでも眠れてしまう質である。この性質のせいで学生の頃はずいぶんと苦労したが、親と同居していたがため、重大なミスは犯すことなく学校を卒業することができた。  その後、一人暮らしを始め、目覚まし時計がスマートフォンのアラームになってからしばらく経った頃――ふと気になった。「いくらでも眠れる」の「いくらでも」とは、果たしていかほどなのか、と。  さっそく試してみることにした。  とある休日前の、夜の十時。折しも季節は眠りと親しい春である。いつもは翌朝の速やかな目覚めのために開けている雨戸をあえて閉め、ベッドのそばに水入れを置く。枕カバーとシーツを整え、ただでさえ深い眠りをさらに深くするため、枕元に置いた湯に薄荷のオイルを浮かべることまでした。  うきうきとした心地とは裏腹に、ベッドに横になると、眠りはあっという間にやってきた。その後の記憶は、当然ながらおぼろげだ。暗闇の中で薄目を開け、夢心地で水を飲んだのは覚えている。時間はわからない。たとえ朝日が昇っても、雨戸を閉めた室内は夜のままであった。  続けて眠り、眠り、眠り続けて――「もう眠れないな」と思ったとき、覗き込んだ時計の針が指していたのは四時。もちろん夕刻の、である。呆然と雨戸を開ければ、窓の外は夕焼けで真っ赤になっていた。  おおよそ十八時間睡眠。誰に知らせることもなく始めた他愛ないチャレンジだったけれど、この数字を見たときは思わず誰かに電話をかけたくなった。私以外の人間にとっては反応に困る話題だろうとも思ったので、誰に言うこともなくここまで来たのだが……こうして日記に書いたことで、十年は前のあの夕方、感動に身震いした自分が少し報われたような気がする。  起床の話をしようと思っていたのに、睡眠の話になってしまった。けれど、それも仕方がないことだろう。眠りがなければ目覚めはなく、目覚めの後にはどうしたって眠りがやってくる

思い出を食べている

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冷蔵庫に梨とブドウが冷えている。 梨は「稲城」という稲城市で栽培されている品種だ。 フォロワーが食べているのを見て、いつか食べてみたいと思っていたのだが、市場に出回る品種ではなく、現地に行ったとて売り切れることも多いらしい。今回は毎年のように買いに行くという職場の上司にお使いをお願いした。使えるものは部長でも使う。 形は大ぶりで肩が張って硬さがあり、したたる果汁は独特の甘さである。 梨のことは何もわからないし、積極的に買うことはないけれど、野菜果物農作物全般においてその土地でしか作られない品種には興味がある。 あと食べてみたいのは和梨の一時代を築いたという「長十郎」。品種改良によって消えゆく古い品種にもロマンを感じるのだ。一度直売所で見かけたことがあるが、こちらも栽培数は少ないので運よく巡り合えるといいなと思う。 ブドウの品種は「ブラックビート」と「藤稔(ふじみのり)」だ。 ブドウのことも何もわからないけれど(何のことならわかるんだ)、毎年ブラックビートと藤稔だけは買ってもいいというマイルールを設けて、見かけたら買っている。 日曜日に栃木に出かけた際も、道の駅で藤稔を見つけてそそくさとカゴに入れた。 なぜブラックビートと藤稔、数ある品種の中でこの2つかと言えば、思い出を食べているからである。 10年来の付き合いになるボードゲーム仲間と、合宿と称して8~9月に泊りがけで遊ぶことがコロナ禍前は恒例だった。 奥多摩のキャンプ場や湯河原の研修施設、熱海のリゾートマンションなど色々な土地へ行ったが、河口湖畔の温泉付きコテージはリピートするほど好評だった。 河口湖に向かうとき、勝沼で途中下車しようと言い出した者がいた。 勝沼は斜面にブドウ畑が広がり、ワインの醸造所がある土地だ。 カーヴと呼ばれる地下の蔵でワインの試飲を何種類も楽しむことができる。そこで気に入ったワインを合宿所に持ち込みたいというのだ。 ところで私は生粋の下戸である。 消毒用のアルコールで皮膚が赤くなるほど弱く、乾杯のコップ1杯さえ付き合えない。 試飲が死因になってしまうので、皆と行動を共にすることはできぬ。 カーヴに消えゆく仲間を見送った後は、施設の周辺を散策した。 そこに掘っ立て小屋でブドウを売る人がいた。 近づいてみると何種類も並んでいて、試食も渡してくれるし、活気のある説明もしてくれる。 その頃の私はまだ

夏の終わり

今朝家を出たら、くっきりと青い空にシュークリームのごときぱんぱんの白雲が並んで、相変わらずクソ暑いがなんだか愉快な気分になった。 暑さ寒さも彼岸まで、とはよく言ったもので、お盆をすぎて少しだけ空が高くなったように感じる。蝉の鳴き声が変わり、日が暮れてからはリーンリーンと虫の声がして、今日なんか帰ってきたらセミファイナルに出くわした。いやいや、そんなに暴れ狂ってやみくもに命を散らすんじゃないよ、びっくりするじゃないのよ。あるいは私が現れるまで気を失っていたのか。起こしたのはわしか。悪かったな。 さいきん仕事の話ばかりしている気がするが、起きている時間のうち大半を仕事に費やしているので仕方がない。ただ、少しずつ気持ちにゆとりが出てきて、他のことに気を向けられるようになってきた。あとは、単純に体が慣れたおかげで「帰宅したら終わり」でなくなってきた、というのもある。 とんと遠のいていた筆の気配が、そろりそろりとやってきた。 中学生の頃に比較的仲の良かった男の子に指摘されたのだが、私は興味の向かないことにはとことん興味を示さないたちである。ひじきさんとかやまおりさんは「興味の向いたことをちゃんと極める」タイプの人だと認識しているのだが、私はそのネガティブバージョン。基本スタンスは「興味ある」んだけど、興味がなかったり失ったりすると、まったく食指が動かなくなる。それはもう、頑として動かない。 物書きが好きという自覚はあるので、興味がなくなったわけじゃないんだが意識が向かないときはとことん向かない。そういうときに筆を執っても物語は生まれないし膨らまない。愛が枯渇しているんだと思う。自分のことで精一杯、他者に向けるゆとりはない。それは、オリジナルストーリーの登場人物に対しても同様である。 愛って結局、時間や労力をかけて対象に向き合うことそのものだと思う。お叱りや説教がひとつの愛の形だと言われるのはそういうわけだろう。怒ることそのものに陶酔するタイプもいるのでひとくちに言い切れないけれど、少なくとも私はどうでもいいものに時間を割こうとは思わない。 あくまで私の場合だが、自分が描き出す物語の登場人物とは、たとえ架空の相手であってもそれなりに関係を築かないと書けない。どんなときに怒るのか、どんなふうに人の話を聞くのか、リアクションの表し方は。会話文なんか特にそうで、文章をキーボードで打ち

祝杯と堆積

 今日は祝杯です。  ここ五日ほど、わりに大きな番狂わせが発生していて、その対応に追われていた。  私が手を動かすことで事態をよい方向へ進められるならよかったのだけれど、立場上そういうわけにもいかず、しかし何かが動いたらすかさずキャッチして投げ返さねばならないような。しかも事態の進展に即して、遅すぎも早すぎもしないタイミングで、明確な正解のない決断をしなければならないような……そういう、はがゆい番狂わせだ。  つい先ほど、このとんでもない番狂わせに係る、おそらく一番大きな決断をし終わった。というか、決断を今日するという決断をした。  長々と書いたが、つまりは祝杯ということなのである。  酒が冷えるのを待つ間、この数日の間に読んだ本の話でもしようと思う。  はがゆい大混乱のさなか、呆然と仕事をし、帰り道に寄った図書館で、知らない作家の本を借りた。  作家の名前はエドワード・ケアリー。手に取ったのは『堆塵館 アイアマンガー三部作』その最初の一巻だ。堆塵館は、そのまま「たいじんかん」と読む。  表紙にはタイトルの通り、塵屑の堆積した山の上にそびえたつ館が描かれていて、我々のすぐ側には、なんだか疲れたような、疲れたことにも気づいていないような顔をした蝶ネクタイの男の子がこちらを向いて立っている。  ごちゃついていて、薄暗くて、いいことなんて一つも起こらなかったしこれからも起こりそうにない――見ているだけで憂鬱になる絵だ。けれど同時に、これから何か大きなことが始まるのだという確信を伝えてくる絵でもあった。  ただでさえ大変なときに、何故こんなヘビーでメシィな雰囲気ただよう本を読もうと思ったのか。本を手に取ったときはわからなかったけれど、今はなんとなくわかる。  ごちゃついていて、薄暗くて、いいことなんて一つも思い出せないしこれからも起こりそうにない。あの番狂わせの対応に追われていたとき、私の脳内は、まさにこの表紙のようだったのだろう。テンションが似ていたから引き寄せられた、そんな気がする。  そんなわけで借り出した『堆塵館』は、意外にも読みやすく面白い本だった。第一巻は全24章あり、章ごとに、なんと作者さん自らが手掛けたという挿絵(表紙も作者さんの手によるものだそうだ)があり、章の中にも小さな区切りがある。語り手は章ごとに変わり、ことによっては時系列も前後する。この『堆塵館』

偏った愛

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 この酷暑、外出すると汗をかくことは避けられず、冷房で一度乾いたとしても、帰宅する頃には自分の一部も溶けだしているのではないかと言うどろどろ具合である。湯船に浸かることが体を労わるとわかってはいるが、一刻も早く洗い流したい欲求に負けて、シャワーで済ませてしまうことも多い。 今日はセクシー大根を見に行った。 セクシー大根とは、収穫写真がSNSでよく出回っているやたらとセクシーな形をした野菜……を、雑貨やアパレルの通販会社 フェリシモが商品化した抱き枕 である。 私がゼミ長を務めるジャガイモ好きの集まり芋研ゼミ、そのメンバーのAさんが、このセクシー大根を愛してやまない。家に大小2体いて日々揉んでは癒されているらしく、近頃はセクシー大根LINEスタンプも多用する。そのAさんと、同じく芋研ゼミ生のHさんと3人で渋谷に出かけた。 スクランブルスクエアのイベントスペースで「大偏愛展」と称して、フェリシモのおもしろ雑貨・動物雑貨シリーズ「YOU+MORE!」の商品が期間限定で展示してあり、触ったり写真を撮ることができる。入口から5体のセクシー大根が出迎えてくれ、園芸鉢用のスタンドから引き抜いてはふわもちボディを抱くことができた。 目鼻はついていないので前後は気にすることなく、どのような感情でそこにいるのかもこちらの想像に委ねられる。 セクシー大根以外にも、パンダやハムスターに混ざって キウィやハダカデバネズミ、マヌルネコなど私が「ひじきさんてそういう(ちょっと変な)の好きだよね」と言われるタイプのぬいぐるみもあり、一定の需要はあるじゃないのよ!と安心したり、あざらしに混ざってカキやカニのぬいぐるみもあり、商品企画会議の様子を見学したい気にもなった。 ジャガイモもぜひグッズ化してくださいと、ポストイットで貼って会場を後にした。 渋谷でフィナンシェを2つ手に入れてから、 三軒茶屋に移動し、昼ごはんはオムライスにした。 この店に行くとなった時から、メニューにあるという「大人様オムライス」にしようと写真も見ずに決めていて、勝手にトッピングどっさりのメガ盛りが出てくることを想像していたが、 実際のところハンバーグとエビフライとマッシュポテトがついているサイズは普通のデミグラスソースのオムライスで、拍子抜けした。 Hさんにペンライトを振って応援上映してもらうこともなく、普通の食事としてにペロ

洗濯機が買える

引き続き、もんにゃりとした不調が続いている。 まあ十中八九、暑さと湿度、バイオリズムによるものだろうと思うのだが、くらりとめまいがしたり指がぴくぴくしたりするとちょっとびびる。なんぞ病が隠れていやしないだろうかと軽く調べてみて、「深刻な病気のサインかも?」なんて書かれているとさらにびびる。 それだけ、病変さらには死が身近になったということだろう。 死ぬのは怖い。いま死んだら後悔しかない。まだやってないことも食べてないものも読んでない本も山ほどあるし、性癖の煮凝りのような本棚や趣味の詰まった物入れの面倒を誰が見てくれるというのだ。 俺しかいない。 というわけで少なくとも生きる気は満々だ。心は最高に健康である。 異変を感じてくよくよし続けるのも不健康なので、折をみて医者にはかかっておこうと思う。 ……とかいって一度ひととおり検査してもらったら、健康の太鼓判を押されて帰ってきたことがあるのだけど。まあ、あれから一年以上経ってるしな。 そんななか最近、またひとつ心配ごとが減った。 勤め先での社員登用が正式に決まり、ちょっと想定してなかったレベルの高い査定をつけてもらったのである。 上司にサラッと連れ出されてサラッと告げられて、びっくりしすぎてかえって無反応になってしまった。おそらく、これまでずっと販売職をやっていたので(販売職というのはあまり給与水準が高くない)、そもそもの私の価値観がズレてるのだとは思うけれど、それにしても。いやありがたいんだけども。 学生時代からこれまで、「なんかできそうに見える」という出オチフラグ立ちまくりの人生を送ってきて、実際に「大したことなかったね」と言われることもしばしば(んなことわかっとるわ)だったため、正直戸惑った。というか「やばい」と思った。ので、胸の内を上司に吐露したら「はっはっは」と笑われた。 いや笑い事じゃねえんですが……。 どうも自分が一番自分を信用できていないのだが、経済的な不安が除かれるというのは本当に大きい。素直に受け止めて、できることをやっていくしかない。 そう考えるとやることは変わらないので、総合的にみてものすごく気が楽になったのである。 「やばい」に次いで思ったのは「洗濯機が買えるなあ」であった。 今の住まいに引っ越してくる前後はまあいろいろあって、家電をもろもろ買い直さねばならず、洗濯機はまあ自宅になくても暮らしてい

キーボードに目配せ

 せっかく仕事が終わったのに、なんとなく気もそぞろで、何にも手をつけられない――この状態に入ってしまうと、気力だけでは通常運転に戻れない質だ。  だから私は、こうなったときのための「なんにも考えなくてもできることリスト」を持っている。今日はリストの中からタッチタイピングの練習を選んだ。  タッチタイピング。キーボードを叩くとき、手元を見ず、指の感覚だけで思い通りに文字を打ち込む技術のことだ。この技術を習得すると、常人をはるかに凌駕するスピードで電子文書を作成できるようになる、らしい。  パソコンのキーボードとは、大学進学にともなって手書きのレポートとお別れして以来、かれこれ十年以上の付き合いである。  しかし〈練習〉という記述からお察し頂けるように、私は未だキーボードに目配せをしながら文字を打ち込んでいる。小説やエッセイの執筆を趣味の一つにしているのだから、人よりも少し長い時間、キーボードに触っているはずなのだけれど……。  いや、上達が遅い理由はわかっている。私がせっかちだからだ。  せっかち故、素早く文章を作成したくてタッチタイピングの練習をしているわけだが、この技に向き合っていると「急がば回れ」という言葉の意味が骨身に染みる。  というのも、タッチタイピング上達の秘訣は「時間が掛かってもいいから常に正しいフォームを保ち、練習中はどれだけタイプミスをしても絶対に手元を見ないこと」なのだ。時間をかけ、最速の打ち方を己の手に覚え込ませること。  私はどうにもコレが苦手だった。だってせっかちなんだもの。  長年キーボードと付き合っているおかげで、キー配列の6割ほどは頭に入っている。6割も理解している状態でキーボードのチラ見が許されたなら、思考と同じスピードで……とまでは行かずとも、まあそれなりの速度で文字を生み出せるようになる。ふと気になって計ってみたところ、ローマ字入力の場合、30秒で80文字程度を入力できているようだ。  実際、タッチタイピングをきちんと習得していたなら、文字入力の平均速度はもう少し上がるらしい。だから本当に速さを求めるなら、ちゃんと練習をしたほうがいい。けれど私はいつも、ついつい、今このとき脳内にある言葉をさっさと打ち込むことのをほうを優先してしまう。  目先のことしか考えられない。「せっかち」の見本のような人間なのだ。  そういった経緯でタッチ

おばさんになっても

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 先ほどまで焼肉を食べていた。 この年になっても、焼肉は「生きてる!」という感じのする食事だ。 火を使って自らの手で肉を焼くからだろうか。テンションが上がり、命を感じやすい。 今回は特にお手頃価格で食べ放題という学生が喜びそうなプランで、気持ちはいつまでもお子様なのだった。 テーブルを共にした相手は元同期のNさんである。 同じ会社に在籍していたのは5年ほどだが、Nさんが退職した後も1年に1~2回、映画を見たり食事をする付き合いが10年以上続いている。 新卒内定者の頃「おう、体育会系陽キャばかり。同期というくくりがなければ、関わらなそうなタイプの人ばかりに見える。仲良くやっていけるのか」とびくついていた(というか遠慮が強いあまりに浮いていた)私に人懐っこく話しかけてくれ、気安くしゃべることができた数少ない同期だ。 いまではNさんは2人の子の母になり、幼稚園や小学校の保護者役職をこなしつつ、子育てに邁進している。 あちらの日常は、子どものことパートのこときちんと手作りする料理のこと。 対する私は子どもをこしらえる予定はなく、かといってバリキャリというには適当すぎて、その時々の興味関心に惚けている。 共通の話題であった職場も多くが異動や退職で入れ替わり、Nさんが顔の思い浮かべられる人は少なくなっている。 つまり、親しくなった時は似たような境遇だったが、今では道が分かれ、私は森で、Nさんはタタラ場で暮らしている。 それでも会えば楽しいのである。 互いの趣味でわかりあえることがあるからかもしれないし、Nさんが聞き上手で私の話に熱心に相槌を打って適切な質問をくれるからかもしれない。 Nさんに限らず、結婚をし、子供を産み育て、若い時ほど自由に出歩かなくなった友人は多い。 約束をするなら子を預けられるようかなり前もって、夕方には帰宅できるような距離で、遠出や宿泊を伴う旅行はもってのほか。家族の体調不良でドタキャンもあり得る。 最近知り合った人はともかく、高校・大学からの同年代の友人はそういう時期だ。 こうやって遊び相手が少なくなっていくのかと寂しく思ったこともあるが、縁が切れず細々とでも付き合いが続いていくのはありがたいことである。 ステージは変わっても、慣れ親しんだ人柄の部分は変わらない。 子育てあるあるネタは持ち合わせないが、話を聞くことはできる。 体の不調・衰えあるあるネタな

キャーが出ない

日本列島は台風接近中の大変な日和である。 関東は直撃こそ免れたものの、猛烈な湿度にさかさま間欠泉のごとくドバッと降る雨、さらに勤め先の周りでは右翼の皆様が集会なさっていて大変賑やかであった。これでも例年より静かだそうだが、予報のせいだろうか。どんなに元気があっても天候には敵わないものだ。 あえて湿度のせいにするが、湿度とバイオリズム的な不調の予感ともろもろがあいまって、今日の私はいつもにまして注意散漫だった。 そもそもがいい加減、かつ、すぐ気分がとっ散らかる己の性分はそれなりの時間生きてきて重々承知しており、過去に何度も痛い目を見ているので仕事中はことさら確認と記録を欠かさぬよう心がけている。私は私を一切信用していないから他人とか紙とかスマホとかに外部出力しているだけなのだが、それをよく見ていてくれる上司は「慎重で正確だ」と評価してくれている。 違う、だまされるな。これはできないやつの極端な対策によるものだ。 そこまでやってもそのうち大きなポカをやるだろう自分の才能がおそろしい。 さて、今の仕事に就いてからちょうど三ヶ月なのだが、とうとうボロが出始めた。大きなミスではないけれど、自分の不注意によるエラーをよく確認しないで他人を巻き込み、巻き込んだ他人によりしょうもない凡ミスを指摘されて終結する、というやつ。 「あ、これたぶん勘違いですね」 アーーーーーッ はずかしい、とてもはずかしい。 内容は大したことないのだが周りを巻き込んで大騒ぎしたというのが大変はずかしい。よくやるのだ、この手の人騒がせを。わかってた、わかってたはずなのに。くうう……! その他にふたつみっつ、よくわかってないのに口出してやんわり窘められるとか、そういうちょっとへこむあれこれをやってしまい、しかしへこんでる場合ではないのでとにかくできることを片っ端から片付けた。しつこいくらい進捗を共有し、どんな小さなことでも質問する。それくらいあちこち声をかけまくっていると、自分がミスをしても誰かが気づいてくれる。 今日もそんなかんじでドタバタ働いてたのだが、どうしても一定の時間より前には帰りたかった。 否、帰らない。 わしは映画を観に行くのである。 あまりにリピーターが多すぎてなかなか目当ての回を確保できず、ようやく席を予約できたのだ。 キャーキャー言う系のやつ。アレです、こないだ美術館に行く後押しになったあ

何でもない日、万歳

  本当の本当に何もない日というのが、たまにある。  実際は仕事なり食事なり睡眠なりをしているし、部屋着を選んだり洗濯物を干したり食器を洗ったりしているわけで、生きている限り何もなかった日などあるわけがない。  ないのだけれど、それでも「今日は何もなかったな」と思う日が確かにあるのだ。仕事以外のことを考える暇がなかった日は、とくにそう思う傾向にある。今日がそれだ。  しかし「一日中お仕事に追われました」では日記が一行で終わってしまう。  ここはひとつ、何か面白いことを思い出すまで、今日あったことを順を追ってただ書いてみようか。  朝は七時に起きて、体重を計ってアプリに入力し、カフェオレと鶏ハムと……何を食べただろうか。さっそく思い出せなくなっている。そう、ヨーグルトに凍らせたバナナを入れて蜂蜜をかけたものと、チョコサブレを一枚食べた。  朝のメニューはだいたい変わらない。チョコサブレが、日によってキャラメルクッキーになったりオレンジケーキになったりフィナンシェになったりする。  その後は顔を洗って仕事をした。  さっき格好をつけて「部屋着を選んだり」などと書いたが、あれは嘘だ。私は家から出る用事がないかぎり、家ではずっとパジャマで過ごしている。  今日はユニクロの股引と、半そでTシャツだった。Tシャツにはノルディック調の絵柄で、ダースベイダーやタイファイターやらAT-ATウォーカーやらAT-STウォーカーやらが描かれている。つまり、映画・スターウォーズのキャラクターものだ。首筋が伸びに伸びているため外には着ていけないが、くたくたになった生地は大変に肌触りがよい。  加えて私はAT-ATウォーカーが大好きなので、鏡を見るたびにちょっと嬉しい気持ちにもなる。  AT-ATウォーカーのビジュアルは こんなかんじ(SW公式) 。  昼は鶏ハムをのせた盛岡冷麺を食べた。もやしと、キュウリと、茹でた卵と、これまた茹でたキャベツがたっぷり盛り合わせてある。  キャベツに限らずだけれど、私は葉物野菜の芯の部分がとくに好きだ。大根やカブも好んでいるので、全体的に白い野菜が好きなのかもしれない。  食後は仕事に戻り、仕事が終わりそうになかったので食器洗いはパートナーにお任せをした。冒頭でなぜか「食器を洗い」と書いたが、今日はやっていないようだ。同じく「洗濯物を干し」も、おまけに「取り込

袋に捕らえられたのです

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 ここのところ、一人遊びの選択肢に植物園が追加された。 先週は神代植物公園 昨日は板橋区立熱帯環境植物館 誰かに誘われたわけでもなく、一人でふらっと出かけ、けっこう満足して帰ってくる。 今日も本当は新宿御苑に行こうかと思っていた。 天気予報を信じて慎重になってしまったが、これなら行けたじゃないか!とちょっと後悔したので来週あたりうずうずと行っているかもしれない。 植物に興味のない私にとってはちょっとした変化だ。 それというのもウツボカズラのせいである。 ウツボカズラになんとなく惹かれて、その姿を見に行っているのだ。 興味がなさ過ぎて調べるまで知らなかったのだが、この7~8月の夏休みの時期、各地の植物園は企画で食虫植物展を開催していることが多い。 新潟でも栃木でも神奈川でも京都でも兵庫でも高知でも(以下略)。特設コーナーを設けて普段よりも多くの食虫植物を展示している。 子どもの自由研究向きだからだろうか? 今年は、朝ドラ「らんまん」で「日本の植物学の父」と言われる植物学者・牧野富太郎を主人公にしているそうだから、余計に盛り上がっているのかもしれない。牧野富太郎は食虫植物「ムジナモ」を発見した人らしいので。 私がウツボカズラが気になるようになったのは今年の4月。 ペーパーウェルと言うネットプリント配信企画用に、ウツボカズラのペーパーを作成してからだ。 いつも企画でコラボしている絵描きのRさんと、作戦会議を兼ねてデートをするにあたり、Rさんの希望で夢の島熱帯植物館に行った。 私は植物の名前を見てもまったく頭に入らないので認識することは早々に放棄し「かわいい~」「おもしろい~」「かっちょいい~」とIQの低い感想を述べながら、見て回った。なにもわからなくても植物のデザイン性は見ていて退屈することはない。 屋外のジャガイモが数品種植わっているところだけ、すごい興奮と格段の解像度でお送りしたが、それは植物と言うよりジャガイモ枠なので…… その後、食事などを経ていざ、どんなペーパーを作ろうかと言うのを話し合ったとき、ふと、ウツボカズラはどうかという案を出した。 昼間見た夢の島の温室に食虫植物コーナーがあり、ハエトリソウやモウセンゴケ、ムシトリスミレ、サラセニアなどとまじり、ウツボカズラがたくさんぶら下がっていた。今回の企画のお題「扉」に(めちゃくちゃこじつければ)ウツボカズラが当て

かっこうをつける

あれ、日付を間違えて日にちを飛ばしてしまった。 交換日記なのに……申し訳ない…… 悔やんでも松陰寺でも時は戻せないので、気を取り直して先に進もうと思う。 世間はお盆休みに突入しているが、こちとら暦どおりの三連休。週明けには出勤である。 とはいえ三連休。世間の浮かれ気分に乗っかって、ちょいと出かけてみるのもいいだろうと足を向けたのは国立新美術館だ。 テート美術館展、テーマは光。ターナーをはじめモネもシスレーも来ている、そういやテートって前読んだ小説にも出てきたな、音声ガイドは誰だろ、フーン板垣李光人か、旬の人だし名前に光をいだいている、素敵な人選だね…… なに? 羽多野渉だと⁉ 今よりも数段オタク度の低かった頃から声が気になってキャストを調べると彼だった、ということがちょこちょこ続き、現在劇場版ライブが大ヒットしているスマホゲームの推しを演じてらっしゃる、なんなら配信ライブのブルーレイも持ってますが⁉ という声優の羽多野渉さんがナレーションに参加してるとなれば体験しないわけにはいかない。 いつ行こういつ行こう、はよ行かんとまた会期を逃すぞ、と己のお尻をペンペン叩いてやっと立ち上がったのが連休初日の昨日であった。普段は半袖Tシャツに適当なズボン、まさにテレビで見る番組ADみたいなカッコをしてるのだが、お出かけにはお出かけの衣装というものがある。お気に入りの花柄スカートにフレンチスリーブのカットソー、天然石に家が生えたゆかいなペンダントを首に提げ、つんと顎を上げて家を出る。私の場合、たまにこういう「格好をつけた非日常」を投入してやると日常に張りが出る。最近、アイラインをちゃんと引けるようになったこともあり化粧にも意味を見いだせるようになった。ここまでずいぶん長かったな。補修の必要も増したしな。何でも必要に応じて上達するものだなあと思う。 帰省ラッシュがピークだったらしく電車に乗ればキャリーケースが林立し、親に連れられた小学生が大音声でちょっとおもしろい話をしている。ボリュームを抑えてくれと思わないでもないが、きっと我ら大人も子供の頃は同じように大騒ぎしていたんだろうとちょっと反省する。 国立新美術館の最寄り駅は乃木坂で、思ったより近かった。地下から上がる道、前を行くのはだいたいカップルで、まさかみんな同じ展示を……と恐れていたらそのまさかだった。 チケットを買ってから入場

積ん読ロマンス

 『ニューロマンサー』という小説を読み始めた。  ウィリアム・ギブスンによる長編SFで、サイバーパンクというジャンルが広く知られるきっかけとなった、エポックメイキングな作品であるらしい――というのが、この小説について、私が最初のページを開く前に知っていたすべてだ。  いや、実のところ、作者の名すら正確には知らなかった。  日記の書き出しとして、作者名まであやふやではさすがに格好がつかないだろうと、パソコンのキーボードの脇に置かれている、読みかけの文庫本の背表紙から引いてきたのだ。  こう記せば、私がいかにSFというジャンルについて無知であるかがお察し頂けるかと思う。  いやいや、それどころか……私はおおよそのジャンルにおいて、エポックメイキングであったと呼ばれるような古典や名作をきちんと読んでいないような気さえする。  とはいえ、今まで読んできた小説のすべてを覚えているわけではない。エポックメイキングな作品を一つも読んでいないと断言すれば嘘になってしまうだろう。  だが少なくとも、今までに読んできたどんな小説も、「これは〇〇というジャンルにおいて■■であったと位置づけられている」と認識した上で読んではいないのだ。そういった来歴を頭に入れてから対面したのは、国語の教科書に載っていた、森鴎外の『舞姫』が最後だったような……?  ともあれ、『ニューロマンサー』である。  私がこの小説を読もうと思ったのは、オモコロというWEBメディアで、『読まずに語れ!積ん読王決定戦( https://omocoro.jp/kiji/204488/ )』という記事を目にしたのがきっかけだった。  タイトルの通り、積ん読の経験者たちが己の積ん読について語る記事だ。しかもその語りを評価し合い、もっとも魅力的な積ん読ライフを送っている人物を王として表彰してしまうのである。  この記事の中で、とあるライターさんが『ニューロマンサー』を積んでいた。そして語っていた。表紙がかっこいい、と無邪気にはしゃぐ積ん読王決定戦の参加者たち。それだけで私は「あっ、読んでみたい」となってしまった。影響されやすいのだ。  前述した記事に影響され、私はまんまとJ・G・バラードの『殺す』を入手した。『テルリア』も積んでいる。  『テルリア』は記事に書かれていたとおり厚く、重いが、大好きだった『イルミナエ・ファイル』と同じ

私が作りました

 頭髪を切り揃えた。 表参道のおされヘアサロンでカリスマ美容師にカラーとパーマとトリートメントを……みたいなことを書けないのは、私が普段行くのが美容院とすらいえない駅前の1000円カットだからである。いや、時世の反映でもう1000円では切れないのだがXをTwitterと呼ぶようにいまだ1000円カットと言ってしまう。 そういえば「カリスマ美容師」ももう死んでしまった言葉なのかもしれない、そのくらい縁がない。 前髪を眉毛が出るまで短く、他の毛先は2㎝ほど揃えてもらうのが常である。 私は平均より髪の毛の伸びが良いようである。1か月に1㎝とよく聞くペースはお構いなしに、2ヶ月で前髪は目に入るようになり、鬱陶しくて4㎝くらいパツンとすることになる。毛が伸びるのが早い人はスケベなどと昔聞いたことがあるが、おそらく栄養状態がいいのだ、そう信じて疑わない。 1000円カットは、店員が毎回のように違うし、滞在時間は必要最低限で、切り手と世間話を続ける気苦労がない。髪型に強いこだわりがないので、店は変えつつもこの業態を利用してもう十数年になるだろうか。 髪型については、このところ約3年周期でおかっぱとロングの間を行ったり来たりしている。 それというのも30㎝伸びたところで、ヘアドネーションすることにしているのだ。 ヘアドネーションとは髪の毛を医療用ウィッグの素材として寄付するボランティアのこと。小児がんや白血病などの病気、不慮の事故等で髪の毛を失った子どもたちのかつらになるのだそうだ。これまで3回寄付をした。 寄付のための断髪時は、団体の賛同サロンに行くことになる。 その時ばかりはシャンプーもカットもブローもマッサージまで丁寧にしてもらえて「美容院に来ている!!おかゆいところはございませんかだ!」とたまの贅沢を味わっている。 断髪に選んだ店が、平日夜遅くもやっていてコスプレイヤーなども通うオタクフレンドリーな美容院なのだが、自分がアニメゲームにまったく興味関心がないために会話がつながらなくて肩身の狭い思いをした1回目、アニメゲームでなくても「好きなもの」について話せばわかり手として聞いてくれるのだと気づいたのが2回目、3回目の去年はジャガイモとフィナンシェとリンゴを前面に押し出して語ったら、美容師の推しにかするところがあったらしく、やたら盛り上がってSNSをフォローし合った。3年に1

浮かばれごはん

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 昨晩、仕事帰りにお腹ぺこぺこでスーパーに寄ったらお惣菜コーナーが燦然と輝いており、勢いのままに油淋鶏を買ってしまった。 ハーフサイズのもあったのに手に取ったのはもも肉一枚まるまるサイズ。帰宅がそこそこ遅いので夜ご飯は軽めにしようと思っていたのに揚げた鶏肉の誘惑には抗えなかった。一番の好物は焼き鳥だが鶏料理全般大歓迎、揚げた鶏にはずれは(ほぼ)ないと相場が決まっている。 作り置きしておいたわかめと瓜のナムルと炊いておいたお米、そしてわらじのような油淋鶏。めまいがするほどの空腹は最高のスパイス。 うまい、うますぎる。 ホクホクと平らげ、ほどなくして布団に入った。 とっとと寝入ろうと目を閉じたのだが、 いまいち寝付けない(当たり前)。 やっと寝たと思ったら夜中の3時に起きた(頑張って二度寝した)。 横になる時間は長かったのに、ろくに寝た気がしなかった。 たらふく食べたうえ、大して間を置かずに寝てしまったために胃腸に負荷がかかっていたのだ。欲望に負け、自らの満足を優先した結果の睡眠不足である。「いつまで学生気分でいるんだ」「おそらく永遠にこのままでしてよ」と脳内問答を繰り広げつつ思った。 「これではおいしいごはんも浮かばれないな」 と。 せっかくおいしくいただいたのに、私の生活習慣のせいで消化不良に終わってしまっては申し訳ない。食べることが大好きなので、食べ物には本分を全うしてほしいのだ。わかってもらえるかなこの気持ち。理解を得にくいだろうことは承知しているが。 さすがの私も学習した。 夕食、というより夜食は軽めにしよう(このくだり、過去に何回もやっている)。 夜の献立を考えるのは帰りの電車の楽しみだ。炊飯器のなかに一膳分のごはん、きゅうりがある、味噌やすりごまがある、ならば冷や汁っぽいものが作れる、魚はないけどまあいいや、豆腐も入れたいけど入れたら大ボリュームになってしまう。ブレーキ。 そうして今晩できたのがこの「インチキ冷や汁」である。 顆粒だしとみそとキムチのつけ汁だけでもそれなりの味わい。 夜はこれくらいに抑えておいたほうがいいのだな、と自戒のために記録しておく次第。

吉報と高熱

  文芸雑誌である『文學界』の2023年9月号、文学フリマ・ルポの中で、私のエッセイ集『〆切七転八倒』に触れてくれた記事があるらしい――ということを、発売の数日前に文學界公式Twitterで知った。  言うまでもないが、しがない同人誌作家である私はしっかりと舞い上がった。が、同時に恐ろしくもなった。  何かの間違いではないか、うっかり誤字ではないか。いやSNS運用担当の方だってプロなのだ、うっかりを疑うのはさすがに申し訳ない。ならどんな文脈で触れられているのか、さらりとタイトルだけなのか、批評までしてくれているのか、はたまた批判されているのか、それとも――  記事の筆者でもあるまいに、この慌てふためきようである。最終的には「わざわざ告知の手間を割いて拙作の名を出してくれているのだから、マア悪いようにはされていないだろう」そう自分に言い聞かせ、同時に、実際にこの目で見るまでは気をしっかり持とうと決めた。  そして今日、八月七日の月曜日こそ『文學界9月号』の発売日だ。私は自分の心の健康のためにも、発売当日の午後イチで買いに行こうと決めていた。しかしその願いは叶わなかった。  よりによって昨日、珍しく高熱を出したのだ。慌てて調べてもらったところ、幸いにもウイルス性のものではないらしかった。  熱の原因には心当たりがある。  二日前の土曜日、私は所用で朝の四時に起きた。用を済ませた後は昼寝もせずに町に出て、人に会い、文具店でノートだのファイルだの細々とした消耗品を買った。帰宅して昼食のカレーを食べている最中に、図書館から「予約本が確保できました」のメールを受け取ってまた出かけ、図書館へ向かい、背負い鞄を四六判ハードカバーの小説本でいっぱいにした。それらを背負ったまま、また朝とは別の町の文具店を歩き回り、また人に会い、帰宅して夕食を摂り、酒を呑み本を読み……耐えがたい眠気に襲われてベッドに倒れ込んだのが、ちょうど日付をまたぐ頃。そうして目覚めたところ、体温が三十八度を超えていたのだ。  ところで朝の四時に起き、夜の十二時に眠ったとすると、その日の活動時間は二十時間となる。これは朝八時起床、翌朝四時就寝に相当する。明らかに活動しすぎだ。発熱の原因がウイルス以外にあるとすれば、それはこの長すぎる活動時間、つまり疲労だろう。  ありがたいことに身体は丈夫なほうで、流行り病ともあまり

針痕のある腕

 献血に行ってきた。103回目である。 記念すべき100回目のときは、正装しなくてはと「献血大好き」と血文字で書かれ採血されるイラストのついたTシャツを着ていった。ワクチン接種の時に話題となった「注射こわい」Tシャツがわかる人は、それとほぼ同デザインを思い浮かべてもらいたい。献血ルームに行く前に立ち寄った朝市でやまおり亭さんに「そのTシャツは」と挨拶もそこそこに突っ込まれたことを覚えている。 話がそれるが、草群さんにも別のTシャツで会って早々「Tシャツ、ハダカデバネズミですね!」と気づいてもらえたことがあったので、ひじきの服の趣味は推して図るべしである。 さて、献血。 大学生の時分、通っていた時期があり節目の記念グラスはいくつかもらっていたが、社会人になると平日昼間は難しく、土日は外出が多いことや服薬を始めたこともあってしばらくご無沙汰だった。しかし、2019年にふと思い立って調べてもらったら献血には問題がない薬だったこと、2020年からはコロナ禍で誰とも遊べない状況になり献血に行くくらいしか予定がなくなったため、ほぼ2週間に1回のペースで通うことにした。立派な志はかけらもない偽善的なただの趣味なのだけれど。 100回以上も経験して、顔なじみとなったスタッフからは「いつもありがとうございます」と言われるのだから、さぞ優良な提供者だと思われるかもしれない。 しかし、400ml献血は基準に満たないので成分献血しかできないし、需要の多い渇望される血液型でもないし、けっこうな確率でスタッフの手を余計に煩わせてしまうこともある。その手間をかける原因が「血圧」である。 私は(今のところ)低血圧のようだ。上はたいてい90台、健康診断の日など、朝食を食べさせてもらえないせいで70台しか上がらずD判定食らう(理不尽)ただし寝起きはよく、パッと目が覚めて爽やかに会話をし、すぐにご飯が食べられるので朝に困ることはない。意識するのは献血の時くらいだ。 まず、献血は血圧が上90以上、下50以上ないと実施することができない。事前検査の段階で90届かずに帰されるということも過去にはあったが、これは行く前にしっかりカロリーを摂取する、測定中にむかつくことを思い出してプリプリするという対策によって改善された。 めでたく検査が通り、専用リクライニングベッドで採血となっても、採血後の血圧が上90以上ない

相応のメンテナンス

     このところ、溜め込んでいたあれこれを少しずつ片付けている。      引っ越しが多かったのでマイナンバーカードの追記欄がいっぱいになっており、ついでにこの春で電子証明書の有効期限が切れ、就職したのに国保の脱退を忘れてて、歯医者にはもうずいぶん行ってなかった。そういうこまごまとした手続きに気を回す余裕がなかったんだと思う。先々を見据えてやっておいたほうがいいことよりも、現状の自分の機嫌をとるので精一杯だったんだろうな、と振り返ってみるとわかる。生活への不安というのはじりじりと心身を削っていくもので、自身の手入れが本当に疎かになる。      この1週間で、このへんのことが一気に片付いた。始業が遅いのでちょっと早めに家を出れば行政手続きは済ませられるし、歯も放置してたらついに奥歯に穴があいたのでやっと重い腰を上げた。ネットで調べてかかった近場の歯医者の対応が早くて明確で親切だったので、もっと早く行っておけばよかった。穴のあいたほうより、その隣の歯がだいぶ深くやられていたらしくごりごり削ってもらった。これ、神経をとるかどうかの瀬戸際らしい。この歳(30代なかば)まですべての歯で神経が残っている点を褒められて、言われて私も惜しくなった。今とってしまってもいいけれどどうしますと問われて、仮詰めの状態で当面様子を見ましょうということになった。「硬いおせんべいなどは気をつけて」と言われたが、おせんべいを食べる機会はそうないのでたぶん大丈夫。赤ん坊の頃からよだれがダバダバ出る体質なので、これまで虫歯になりにくかったのはそのおかげかもしれないな。今後は歯も大事にして、できるかぎり長いあいだ食いしん坊でいたい。     生命を脅かすほどではないけれど、わずかずつ降り積もっていった不安が拭われて、身が軽くなった気がする。今日は歯医者のあと街に出て豚の味噌漬け定食を食べ、ペンの替芯とかノートのインデックスとかTシャツとかちょっと気になってたマンガとか、通販するほどでもなくお店に行かないとなかなか買わない類の買い物をして、我ながら地味なラインナップだけどずいぶん満足した。高温のなか歩き回ったものだからくたびれてしまって帰宅してからぐうと昼寝をして、日が暮れてから脱毛サロンに向かった。     無職になったとき、気持ちは焦るが時間がぽっかり空いてしまって、ノリで体験しに行ってそのまま

三回目への警戒心

この日記を始めてから、三回目の当番が回ってきた。 いよいよか、と密かに手に汗を握る。 思えば、何につけても満足に「三回目」を迎えられない人生を送ってきた。日記しかり、ラジオ体操しかり、「欠かさず続ける」ということが昔からどうにも苦手なのだ。 一回目はいい。何事であれ気力と、明日から始まる「毎日コレを続けている建設的な日々」への希望にあふれた心身で始められ、満足感と共に終えることができる。二回目も、マアおおよそ問題はない。まだ「毎日やるぞ」と決めた昨日の余韻が残っている状態だ。 しかし鬼門の三回目。初日の余韻はもはやなく、「毎日コレを続けることができれば手に入るはずの輝かしい日々」は「明日からも休まずコレをやっつけなければならない窮屈な生活」に様変わりしている。 私はどうしてコレを毎日欠かさず行おうなどと思ったのか。私はコレのために生まれ、コレのために死ぬのか。人はパンのみにて生くるものにあらず、なれば翻って「理想の己」の実現のみにて生くるもまた愚かなことなのではないか。おいしいパンのためにだって生きていきたい。おいしいパンのおいしさを言祝ぐ余裕もなく何が人生か。人の世のよろこびとは、人の生きる意味とは、人はどこから来てどこへ行くのか―― ただ気まぐれに「毎日やる」と決めただけの事象が、三日後には必要以上に大きな壁として取り上げられ、有名な格言まで引き合いに出されて批判され、勝手に人生を背負わされ、最後には理由も有耶無耶なまま悪者にされて私の生活から退場させられてしまう。私は「毎日やる」ことを苦手としているが、このありさまでは「毎日やる」のほうが私のことを苦手としていてもおかしくないだろう。 こんな調子だから、今日の日記、すなわち自分自身の三回目の当番にもちょっとした緊張感を持っていた。「三回目」という概念に淡い警戒心すら抱いていたのだ。 「三」を恐れるあまり、私は夕暮れと同時にこの日記を書き始めた。そうして今、存外にすらすらと書けることに驚いている。 考えてみると、二日おきなのがいいのかもしれない。私が執筆を担当した翌日は草群さんの日記を楽しみに待ち、その次の日はひじきさんの日記を読みながら「さて、そろそろ」と気力を溜めることができる。 恐らく、この「気力を溜める」という行為が、何かを続ける上では重要なのだろう。気力の充填に必要な期間は人によって様々で、どうやら私の

こわくないよ

 「ヴァチカンのエクソシスト」という映画を見た。 ホラーという噂だったので同行者の希望により最後列、出口に一直線の席で見たのだが、終わった後に引きずるような恐怖はなく、まもなく公開予定の作品予告で流れていた映像の方がよほど不気味だった。コンパクトな舞台設定ながら信仰で殴るバトルのような見せ場もあり、なるほど話題になるだけのおもしろさはある。ラッセル・クロウ演じる主人公の神父が、修道院内で起こるポルターガイスト現象の中、扉を体当たりでこじ開けていく様子を見て(斎藤みたい)と思った。続けて(ならばもう一人の若き神父トーマスは山村かな)と。斎藤と山村は「日本統一」の登場人物である。日本統一のことを真面目に書こうとすると長くなるのは必然で、それは交換日記でやることではないだろうと必死に堪えるのだが、日記であるがゆえに身近なそれを今後もちらと話題に出す可能性はあることをご容赦いただきたい。 「映像作品を見て何かを思い出すときにヤクザ映画がナチュラルに浮かんでくるくらい馴染んだひじき」のことを書きたかっただけなのだ。 日本統一はヤクザもののVシネマである。2013年から10年間、短いスパンでコンスタントに作品が制作され続け、スピンオフも合わせると80を超える。ストーリーは、不良だった2人の男が日本最大のヤクザ組織の幹部に成り上がり、極道界の統一を目指すバディものだ。ヤクザ映画は怖いイメージがあるかもしれないが、暴力表現はマイルドだし(絶対当たってない)先に出した熊体型の食いしん坊・斎藤やアニヲタの山村のような子分と男子高校生みたいにキャッキャウフフしてるシーンがほとんどだよ!80作品も作ってまだ日本を統一できてなくて続いてるよ!キャラ立ちした登場人物が多彩だからカップリングもはかどるよ!(?) 私は2022年12月から半年間で一気にこのシリーズに目を通した。1月に川越いも街道に遠足した際も、芋を食べながら草群さんに統一の話をしたので、そんなに布教したいのかと思われたかもしれないが……別にヤクザ映画を人に勧めたい気持ちはない。単なる近況報告なのだ。 日本統一を始める前段階がある。2021年夏、ヤクザのことを何も知らなすぎるのでちょっと勉強しようと思って、タイトルとテーマメロディが有名な「仁義なき戦い」を見た。そこから東映実録路線をはじめとするヤクザ映画を平日夜に見るのが習慣化する

四日目のカレー

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所属先の部署がスロースターターなので、退勤時間も比較的遅い。 慣れてきたとはいえ、仕事の進め方はまだ手探りな部分も多く、やり方を途中で変えてみたり進めてるうちに「こうじゃない」と気づいたりしてどうしても時間がかかる。きりのいいところまで終わらせようとすると残業は避けられず、帰宅もそれなりに遅くなる。 だもんで、今週は日曜に作っておいたカレーが大活躍した。 昨日までの三日間はオンライスで食べた。帰ったら少しの支度でご飯が食べられる、というのは絶大な安心感があり、仕事にも身が入る。ご飯に満足できないとあらゆることが手につかなくなるので、これは重大事である。 鍋ごと冷蔵庫で保管して食べ続けて四日目、最終日の今日は顆粒だしとお湯をぶちこんで温めてからちょいと醤油をさし、冷凍うどんを放り込んでカレーうどんとした。 味見などしない。カレーがうまかったんだからうまいに決まっている。今回のカレーは炒めたケチャップと鶏がらスープ顆粒が入ってるのでさっぱりしており、うどんとも相性がいい。 自分の好きな味つけで好きな分量食べられる。 これだから自炊はやめられない。 ちゅるり。 そこへ近所の居酒屋の唐揚げも添えた。 いっつも店のおもてのホットケースに積んであるからあげは、竜田揚げ寄りのかりっとしたタイプでこれまで食べたなかで五指に入る好みの味。元気を出したいときに買って帰ることにしている。 昨日はそろそろ店じまいしようかという空気の店に頭を突っ込んで「みっつください〜」って伝えたはずなんだが 帰って開けてみたらよっつ入ってたよ!! 時間的なものか、あまりのよれよれ具合を労ってか、明るい店主のおまけが沁みたのであった。今度お礼言いに行こう。 よっつなので、昨日ふたつ、今日ふたつに分けて食べました。 あー美味しかった。

破壊王と満ちていない月

 今朝、この夏に入って10個めの洗濯ばさみを壊した。 ピンチハンガーにぶら下がっていたものを6つ、ズボンハンガーの片割れを4つだ。ピンチハンガーとは、ピンチ(洗濯ばさみ)がたくさんついていて、タオルや靴下なんかを干すときに便利なアレのことであり、ズボンハンガーとは、普通のハンガーの両脇に洗濯ばさみがひとつずつセットされていて、ズボンを干すときに使うアレのことである。 洗濯ばさみのぴょんと立った耳を、二つの指でつまんで押し開ける。このとき、圧をかける部分が目測より上にズレると洗濯ばさみの耳が割れる。圧をかけた少し下からメキョリとゆくのだ。 そもそも私は春夏秋冬、洗濯ばさみを壊しがちだが、この夏は特にひどい。おそらく洗濯物を干している最中は昼間の熱さで洗濯ばさみが熱され、取り込まれてはクーラーの風に冷やされ……その繰り返しでプラスチックが劣化してしまっているのだ。その証拠に、これまでならメキョリと割れるところ、この夏はほろりと崩れる洗濯ばさみもいくつかあった。ほろりと崩れる洗濯ばさみはかなしい。ものを壊せばいつだって多少なりともかなしいものだけれど。 ところでピンチハンガーの場合、洗濯ばさみの部分をうっかり割ってしまっても対処のしようがある。というのも、ピンチハンガーの中にはたくさんの洗濯ばさみがぶら下がっており、その中には〈普段あまり使わない洗濯ばさみ〉がある。割れてしまった洗濯ばさみを、そのエリアにある割れていないものと差し替えてしまえばいい。けれどズボンハンガーをやってしまった場合、こうはいかない。アレの洗濯ばさみは対になっているのだ。ひとつ壊してしまったら、ほんの少しでも欠けてしまったら、もう使い物にならない。今朝壊したのはズボンハンガーのそれだった。 ようやく涼しくなった夜。触れるもの全て傷つける己の手を思いながら、とぼとぼ歩き、底抜けに明るい吉祥寺ロフトで新しいズボンハンガーを買う。その帰り道、陸橋を通り過ぎる電車の音につられて少し視線を持ち上げると、夜の空にまるまると月が浮かんでいた。満ちきってはいないものの強い光を振りまいて、まろい肩から滑らせるように纏った薄い雲を、透き通った淡い茜やかすかな黄緑に染めている。完璧であってもそうでなくとも変わらず堂々と空で光る月が、今夜は妙に愛おしい。