祝杯と堆積

 今日は祝杯です。

 ここ五日ほど、わりに大きな番狂わせが発生していて、その対応に追われていた。

 私が手を動かすことで事態をよい方向へ進められるならよかったのだけれど、立場上そういうわけにもいかず、しかし何かが動いたらすかさずキャッチして投げ返さねばならないような。しかも事態の進展に即して、遅すぎも早すぎもしないタイミングで、明確な正解のない決断をしなければならないような……そういう、はがゆい番狂わせだ。

 つい先ほど、このとんでもない番狂わせに係る、おそらく一番大きな決断をし終わった。というか、決断を今日するという決断をした。

 長々と書いたが、つまりは祝杯ということなのである。

 酒が冷えるのを待つ間、この数日の間に読んだ本の話でもしようと思う。

 はがゆい大混乱のさなか、呆然と仕事をし、帰り道に寄った図書館で、知らない作家の本を借りた。

 作家の名前はエドワード・ケアリー。手に取ったのは『堆塵館 アイアマンガー三部作』その最初の一巻だ。堆塵館は、そのまま「たいじんかん」と読む。

 表紙にはタイトルの通り、塵屑の堆積した山の上にそびえたつ館が描かれていて、我々のすぐ側には、なんだか疲れたような、疲れたことにも気づいていないような顔をした蝶ネクタイの男の子がこちらを向いて立っている。

 ごちゃついていて、薄暗くて、いいことなんて一つも起こらなかったしこれからも起こりそうにない――見ているだけで憂鬱になる絵だ。けれど同時に、これから何か大きなことが始まるのだという確信を伝えてくる絵でもあった。

 ただでさえ大変なときに、何故こんなヘビーでメシィな雰囲気ただよう本を読もうと思ったのか。本を手に取ったときはわからなかったけれど、今はなんとなくわかる。

 ごちゃついていて、薄暗くて、いいことなんて一つも思い出せないしこれからも起こりそうにない。あの番狂わせの対応に追われていたとき、私の脳内は、まさにこの表紙のようだったのだろう。テンションが似ていたから引き寄せられた、そんな気がする。

 そんなわけで借り出した『堆塵館』は、意外にも読みやすく面白い本だった。第一巻は全24章あり、章ごとに、なんと作者さん自らが手掛けたという挿絵(表紙も作者さんの手によるものだそうだ)があり、章の中にも小さな区切りがある。語り手は章ごとに変わり、ことによっては時系列も前後する。この『堆塵館』それ自身、短いお話が堆積してできた本なのだ。

 一つのエピソードが短いから、作業の合間にふっと手に取っても罪悪感がない。この一章分を読み終わるくらいの時間なら現実逃避をしていい、そう思わせてくれる小気味よい細切れ感がある。

 「もうだめだ」と思うたびに手に取り、不安で寝付けない夜に一章だけ読み、「何もかも忘れて逃げちゃったらどうなるんだろう」と視線を彷徨わせたとき表紙が目に留まってまた少し読みながら気持ちを落ち着けて――『堆塵館』にはずいぶんお世話になった。

 しかも、この本は三部作の最初の一巻。これを読み終わっても、まだ二冊読めるのだ。読むものがたっぷりあるとうれしい。

 そろそろ酒が冷えてきた。

 このシリーズの二作目を手に取ったなら、次は一気に読んでみようと思う。物語を自分の中に少しずつ堆積させてゆくのとは、また違った面白さを味わえるはずだ。

コメント

  1. 番狂わせ対応、お疲れ様です。主催の仕事の八割は決断ですよね。
    やまおり亭さんの紹介する本、読んでみたくなるんですよね〜。探してみよう。

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  2. いまこのタイミングで引き寄せられる本、ってありますよね。一時期「したたかに生きる女の話」ばかり読んでいた頃がありました……
    イレギュラー対応お疲れ様でした。大変なときに横から空気読まずに用事ぶちこんじゃったなーと思いました、すみませんでした!

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