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かっこよくておいしい

昨日から強風が続いている。少し前に干しキノコの話をしたが、このように風の強すぎる日というのは、キノコを干すには少し適さない。干し網が風にあおられ、せっかく網の上に並べたキノコたちが重なり合って乾きにくくなってしまうのだ。 さて。我が家では引き続き干しキノコが活躍しているが、最近はそこに茶碗蒸しブームが加わった。寒い日の夜、キノコ出汁に溶き卵を入れ、カニカマを一緒に蒸すのが美味い。ドデカいマグカップで豪快に作るのがコツである。 そこにうどんを足した〈小田巻き蒸し〉にも手を出したが、市販の茹でうどんを使ったせいか、今ひとつ“うどん”を追加したことで得られるだろう妙味を味わい切れなかった。うどんが煮えすぎて、味も触感もふわふわとしてしまったのだ。おそらく冷凍の讃岐など、コシのあるうどんを使えばまた違ってくるのだろう。これは次回への課題である。 そんなこんなで茶碗蒸しを楽しむようになると、カニカマを入手するため、スーパーの鮮魚売り場を頻繁に覗くことになる。そこで見つけたのが「アブラツノザメ」の切り身であった。 鮫……食べたことがない。しかし白と赤の層が幾重にも重なった切り身にはつややかな張りがあり、いかにも美味しそうだ。しかも半額である。ということで買い、味塩コショウで焼いてみた。 焼くと身は白くなる。見た目は白身魚の塩焼きだが、いつも食べている白身魚とは明らかに触感が違う。箸を入れた先からふわりとほどけるように割れるのに、ほろりとはしていないのだ。むしろ、もちもち、むっちりとしている。味は淡泊。けれど焼いた白身魚によくあるパサつきは一切なく、非常に美味い。軟骨魚類であるが故の肉質の違いなのだろうか? そういえば近所のスーパーで、たまに「モウカザメ」が売られていた気がする。あれを試せば、何ゆえのむっちりなのか少しはわかるのかもしれない。 そこまで考えて「アブラツノザメ」を検索してみたところ、検索ワードのサジェストに「絶滅危惧」の文字があった。心臓がひゅんと跳ねあがる。おいしく食べてしまったが、ひょっとして禁断の食材だったのか? レッドリストの抜粋/翻訳が掲載されたPDFを恐る恐るダウンロードして確かめる。すると名称こそ同じアブラツノザメであるが、絶滅が危惧されているのは学名違いの種であるようだった。いや正しくは、売り場に表示されていた産地から推測するに学名違いの種だろう、と

馬鹿馬鹿しいところを一席お付き合い願います

 交換日記をはサボっていたのはお二人のように仕事が忙しかった……からではない。 キリギリスのように先のことは考えず愉快に生きているひじきなので、最近は平日の夜も立て続けに予定が入っていた。 フルーツ食べ放題のアフタヌーンティーに行ったり、赤羽のボードゲームカフェに道場破りに行ったり、女子会研究会で酒池肉林したり、吉祥寺のボードゲームカフェでおばけキャッチの練習会をしたり……おかげで仕事中眠くて眠くて使い物にならない(おい) 火曜日は銀座にホール落語を聞きに行った。 この15年ほど年に一度行われている会で、推しの噺家ばかりというか、推しの噺家しか出ないのでなるべくチケットを取るようにしている。 以前はもっと2〜3ヶ月に一度は落語を聞きに行っていたものだが、コロナで途切れてしまい、最近は定例としているのはこの会くらいになってしまった。 私の落語との出会いは、小学生低学年の頃まで遡る。 親の趣味で家に落語のカセットとCDがいくつもあり、風邪を引いた折など、こだま電球だけの薄暗い部屋で熱に浮かされながら暇つぶしにそれらを流していた。もっと幼い頃は昔話カセット詰め合わせがその役目だったのが、その中でも特にとんちの効いた吉四六さんや一休さんの話を好んでいたので移行はスムーズであった。 笑点メンバーが地元の文化会館などに来る際は連れて行ってもらったし、上野などにある寄席にも「最年少のお客じゃないか」と周りのおじさんに言われながら、入れ代わり立ち代わり繰り広げられる落語を楽しんだ。 当時はにほんごであそぼのようなテレビ番組など影も形もなかったのに、寿限無を諳んじられる気持ちの悪い子どもであった。あるとき、クラスでダジャレを言う人1位に選ばれたのも今思えば落語の影響ではないのかと疑っている。 そこから、だいぶブランクがある。 落語をまた聞くようになったのは、2016年の昭和元禄落語心中のアニメ化がきっかけだった。 何気なく見てみたら、 知ってる噺だ!とノスタルジーが溢れてきて、久しぶりに落語を聞きたくなった。 今はインターネットで情報が拾える。東京にいるから寄席も落語会もたくさんある。 折しも巷では、若手の2つ目をおっかける落語女子ブームが起こっていた。寄席に行っても浮くことなく擬態できる。 子供の頃の推しの噺家は、当時からだいぶおじいちゃんであったから、もう鬼籍に入られた方も多い。

百薬の長

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ご飯と睡眠、それからお酒。 すきなものが多いというのは大変よいことだ。いろんなものの助けを借りて今日も元気に生きている。 はずなのだが。 やばい、と思ったので助けを求めることにした。 仕事の話である。もともと忙しい部署ではあるのだけど、ありがたいことに増員が叶い、新人が私の横にもうひとりつくことになった。 …なんで? 一番の下っ端にアルバイトと新入社員の二人がつく。人手が増えたといえば聞こえはよいが、教える時間、受ける質問、仕事を作って振る手間がほぼ二倍になるということだ。新人たちには悪いけどあえて言わせてもらう。これは手間なのである。しかも、ひとりめの新人にほぼ教え終わって復習に入っているところを、もうひとりに一ヶ月遅れで再度教え直すことになっている。へたすると五分おきくらいに声をかけられて、こちらもしっかりわかるように説明するもんだからそれなりの時間をもっていかれる。 仕事なのだからやるけれど、遅い時間に一緒に残っていた先輩社員が「顔ひきつってるけど大丈夫?」と声をかけてくれて、とうとう本音が出た。 しんどい。 見通しが立たなくてつらい。 私は私の仕事を、新人の相手する合間になんとか片付けているありさまで、本来そちらが本分のはずなのに片手間になってしまっているし、遅い時間にやっと取り掛かるから集中力も落ちていてミスや見落としが増える。新人たち二人のミスも私が回収しているから、必然的に怒られることも増える。 ていうか、私もまだ準新人なんですが。 なんで私が。 その翌日、出勤の電車でうっかり涙が出そうになって、駅から会社に向かっているうちに苦しくなってきて、出社したその足で人事のところへ駆け込んだ。 夕方に時間をとってもらうことにして、一旦業務に入る。働いているうちに落ち着いてきた気がする。やるべきことはたくさんあるのだ。気のせいだったならそれでいい。 が、夕方の面談のときに「それは単に忙しさで麻痺してるだけですよ」と指摘されて「そうか」と反省した。 ちょっとこれは、仕事のやり方を見直さなければならない。 こういうときにいい顔をしようとするのは私の悪い癖なので、この際だから思っていること洗いざらい話してしまった。仕事だし、誰かがやらなければ終わらないし、今後のことを考えるといい加減な教え方はできないし、なぜそうなるのかをセットで理解させないと応用がきかないし。そう思

幸運に祝杯

 ひとつ前、ひじきさんの日記から6日経ってしまった。むらくもやま史上、最長のブランクではないだろうか。大変申し訳ない。こんなにもぼんやりと、仕事に追われて日々を生きていたのか……と改めて呆然とする連休明けの今日である。 今日も仕事を終えてぼんやりとし、ぼんやりながらも「今日こそ交換日記を書きたい」と思いつつ帰路について数十分。まばらに人が点在する、よくある夜の住宅街にて―― ふと、首のうしろに違和感を感じた。反射的にそこへ手を遣ると、指先が何かに触れた。触れたその何かは私の指に驚いたようにわずかその身を縮め、襟首から服の中へころんと滑り降りて行った。 すべてが終わって、少し遅れて理解する。指先に触れたアレは甲虫であったと。 ざっと血の気が引く。と同時に一番上に着ていた薄手のウインドブレイカーを脱ぐ。振る。異物なし。さらに血の気が引く。神経のすべてが背筋に集中するが、悲しきかな何の気配も感ずることができない。 上着を脱いだ今、私が着ているのは肌着、Tシャツ、フリースジャケットだ。理性ある人として、屋外でこれ以上服を脱ぐことはできない。というのも家の外で脱衣しないことを前提に、長袖の肌着の上に半袖のTシャツを着ているのだ。ここでフリースジャケットを脱いだならば、あまりにも、いや、でも、しかし―― コンマ数秒のためらいを経て、剥ぎ取るようにフリースジャケットを脱ぐ。一縷の望みをかけて振る。異物なし。もう一度、五感のすべてを動員して背筋の感覚をたどる。何もない。何も……。 成人としてありうべからず姿で立ち尽くしていることを悟り、手早くフリースジャケットを着込みなおす。事態は何も進展していないが、少なくともフリースジャケット層に部外者が立ち入っていないことだけは確実となった。 いや、本当に確実か? 相手はこれだけ背筋に感覚を集中させてなお察知できない、かそけき甲虫だ。それだけ脚も細いだろう。それが私の肌、肌着、Tシャツいずれかの層の上を這っていたとして、私ごときにはとても知覚できないのではないか? もしくはすでに、かそけき彼の虫は私の背と服のどこかで潰れて儚くなってしまったのではないか―― 本当ならば、いますぐ上裸になってすべての服を丁寧にひっくり返し、振り、罪なき甲虫を見出して逃がしてあげたい。とはいえこれ以上、路上で挙動不審な様を晒すことはできない。ほどよく人の目があるこ

猫と錬金術

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 春が立った日、むらくもやまの新年会が行われた。タイミングよくひじきの当番にあたったので堂々と写真付きでご覧ください。 今回の店は、2022年12月に私と草群さんがイベントの打ち上げをした店に再訪した。 我々は以前にその店で錬金術を味わったのである。またあの錬金術を執り行いたい、やまおり亭さんにも体験してもらいたい。折に触れてそう言い続け、でも新規開拓もしたいジレンマもあり、だがやはりそろそろとこの日になった。 もも焼きの店である。 もも焼きは20〜30分かかるので先に注文する。5種類の味から迷いつつも、クミンなどのスパイスががかかったデュカ味にした。いやーチョイ辛いのも美味しいとは思うけど、錬金術なんで。 やまおり亭さんには「錬金術なんで」しか言わないでにやにやと笑うむらくも。 まずはすぐ出そうな燻製ポテサラ、なめろう、この店なら野菜の刺盛りは欠かすことができず、あ、スコップサラダもある(ナチュラルに芋を選ぶ) 店員さんが常ににこにこして、こまめに皿を下げてくれて、感じが良い。 草群さんの髪の毛がネイビーになっており、似合っていて大変かっこいい。 創作イベントに関する話、私よりもおふたりは企画などを主催しているので体験を含めた前線感があり、なるほどなあと拝聴する。主義とか主張とか覚悟とかもっとふんわりした思いとか、どう向き合うかはそれぞれよね。 ふむふむ聞いてるだけでなくて、次の旅行のこととかマイナビ農業の記事のこととか( これね )じゃがアンソロ2について話題を振ってくれるのでしゃべれるのが嬉しい。 イモタスカップのときもそうだったけど、やまおり亭さんはじゃがアンソロ通信の意図が正確に汲み取れている。情報を小出しに共有することで放置しない、締切を意識させる、他の人の進捗がちょっと見えるのでワイワイしやすくなるという目的があります。 さて、もも焼きがやってきた。 まずは手と口をべっちょべちょにしながらかぶりつく。取っ手にしていた部位がポロリと外れたときのやまおり亭さんの反応がカワイイーと言い合う。 もも焼きは皮はパリパリ肉はジューシーなので落ちにくいリップもびっくりのクレンジングオイルになってしまう。 軟骨を剥がし、舐め尽くすようにキレイに平らげる。 そして、頼んでおいた銀シャリおにぎりに、 皿に溜まっている油を躊躇なくたっぷりと塗りつけて、口にはむっ、すかさず鶏

キッチンドランカーの食卓

土曜日。 午前10時まで寝て、ゆっくりお風呂に入って、焼いた餅を食べてぼんやり「ダンジョン飯」「葬送のフリーレン」「彼女が公爵邸に行った理由」を立て続けに観て、あんなに寝たのにまた昼寝するという、とことん怠惰な一日をすごした。 公爵邸のアニメ、梅原裕一郎の声があまりにも良い(知ってた)ので観始めて、ストーリーはまあ、うん、絵も魅力的で面白いと思うのだけど、オープニングの曲が本編と合っていないように感じて毎回ムズムズしてしまう。この話にスピード感あるロック寄りの曲を持ってくるか……レールガンみたいな近未来の話ならいいけどさ…中世貴族社会の世界観で異世界転生っていうクラシックなラノベなのでとことん王道でいってほしかったというか… いや、このへんにしておこう。 物語の導入部分での雰囲気作りって大事なんだなあ、と実感した次第である。 活動を開始したのは日もとっぷりと暮れた18時半になってから。 卵を切らしたのと宅配便ロッカーに用があったので、ぽてぽて歩いて近所のミニスーパーまで買い出しに出た。もともと夜はニラ玉うどんにするつもりでいたのだが、豚しゃぶ肉が安くなっていたので買ってきて、ひとパックまるまる鍋に放り込んだ。 冷蔵庫にレモンサワーをひと缶置いてあったのを飲みながら調理するとこういうことになる。「中途半端に余らすよりも、いっぺんにたくさん食べたほうが幸せではないか」という謎の論理が浮上するのだ。 もちろん飲みながらの調理は危ない。今日みたいに、日中に餅しか食べてない空腹の状態ならなおさらである。だから、揚げ物はもってのほか、複雑なことはしない。下ごしらえには包丁も使うけれど、キッチンバサミで済んでしまうものも多いし。 ひとパックまるまるの豚しゃぶ肉は、うどんとともに綺麗に私の腹におさまった。 鍋が煮える間に缶をぷしっと開けて傾けるの、なんか楽しいんだよな。休日、ってかんじがする。調理中ってたいていおなかがすいているから、手頃なおつまみがあるとなお楽しい。 今日のつまみは久しぶりに手に入れた6Pチーズでした。美味しくて感動してしまった。

冬は汁物

雪の降りたるはいふべきにもあらず、今、干しキノコが熱い。 ことの発端は、パートナーのご実家から干しいもを頂戴したことにある。昨年の秋、自家製さつまいもをふかして作った干しいもを、たっぷり1キロほど送ってくださったのだ。その際に「干しが甘めだから、長期保存をするなら追い干しを」との助言を賜り、ならばと干し網を購入した。 いかにもな青い化繊の紐でざっくり編まれた、300円かそこらの安価な平網である。その網に干しいもを並べ、洗濯物の隣にS字フックで吊り下げて風に当てること数日。 追い干しした干しいもは少し硬くなり、トースターで軽くあぶると、ねっとりとろとろに仕上がった。しっとり出来たてとはまた違う味わい。凝縮された甘みと旨み。 そう、食物は干すと諸々の味がぎゅっと凝縮されるのだ。凝縮を経て美味しくなるのみならず、日ごと水分が抜け、小さく慎ましくなってゆくその姿も愛らしい。 天気とにらめっこしながら干しいもを育てるうち、我が家はみるみるうち「干し」のとりこになっていった――が、しかし。その頃には残念ながら、頂いた干しいもをすっかり食べきってしまっていた。 そこで目をつけたのがキノコである。 「しいたけは干すと栄養価が上がる」という話は有名だが、試したことはなかった。干し網が手元にあり、“干し熱”の上がり切った今こそ試し時であろう。 そんなわけで、しいたけ、しめじ、エリンギ、舞茸、えのき等、近所のスーパーで買える限りのキノコを買い求め、干してみたのだ。 いっときに多種多様なキノコを干し、さまざまなことがわかった。キノコは干せば干すほど小さくなるため、しめじやえのきなど房をほぐすタイプのキノコは細かく裂きすぎると網の隙間からこぼれ落ちてしまうだとか、雨天の折り屋内に干し網を入れると、とんでもなく濃厚なキノコの匂いが家に充満するだとか。 北風と太陽のご機嫌に振り回され、キノコ原木で組まれたログハウスにでも滞在しているのかと錯覚しかねないほど芳醇なキノコの香りに包まれて眠りにつき、よきところまで干されたキノコを回収しては新たなキノコをほぐし、切り分け、網の上に並べ……そんな日々を過ごして今日(こんにち)、我が家の冷蔵庫には常に3袋の干しキノコミックスがストックされるに至った。 乾いてからっからになったキノコはさながら秋の道端に落ちている小枝や枯れ葉の様相であるが、水に放り込めばそれ