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9月, 2023の投稿を表示しています

心のなかにブルドーザー

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土曜日。 朝ゆっくりしすぎて歯医者に遅刻しかけ、公園のなかを小走りで通り抜けているとシェパードにおすわりを教えているおじさんがいたり、警察が交通安全キャンペーンの会場を設営していたり、平日とくらべて人の流れが散漫なのがらしいなあと思う。 そんななか脇目も振らず突き進む私。まったく、ゆとりを持って生きていきたいものである。 歯医者のあとは電車に乗って、ずっと通っている美容室へ。私の髪は量が多い上に元気なので、少し放置するだけでびっくりするほど嵩が増える。今日も今日とて側頭部と後頭部に3ミリのバリカンを入れてもらい、すっきりツーブロックにしてもらった。 「今日も3ミリでいいすか」 「いいす! やっちまってください」 いつものやりとりでサクサク切ってもらってたら、もう15年以上の付き合いになる美容師のMさんがおもむろに「いま、この近くで一日一杯タダでジントニック飲めるんすよ」と言い出した。 急にどうした、とよくよく聞いてみると、新しくできたクラフトジンのお店がやっているキャンペーンだという。タダほど怖いものはない、せめてちょっとくらい払わせてほしいよな、と言い合いつつ「俺も行ってきたけどみんなフツーに一杯だけ飲んで出てましたよ」と抜かすMさん。いや飲んだんかーい、と心のなかで突っ込んだが、結果これが私の背中を押した。なんか気まずい思いしてまでタダ酒飲まなくても、って思っていたけど別に気に病むことはないらしい。なんなら受け取ったらそのまま街に繰り出せばよいのだ。 というわけで日曜の昼から飲んできたぞー! ぐるっとカウンターにきれいなビンのクラフトジンとシュッとした若者たち、 そこへへらっと現れて、スタッフの案内に従って「0円サブスク」の登録をする。 これ、今後有料化するジントニック(ジンソーダとかノンアルもある)サブスクのお試しとしてやってたらしい。なるほど、仕掛けがわかればそんなに怖くない。近所で働いてたりしたら最高にお得だが、そんなに頻繁には来ないしな……と心揺れるくらいだったので、キャンペーンとしてはなかなか悪くないんじゃないか。 ひとまず一杯、受け取って店を出る。あるきながら飲みたかったので。 10月にしてはまだまだ気温が高いが、それでもずいぶん過ごしやすい。 いかにも休日な人混みのなかを、ゆうゆうとお酒を飲みながらぶらつくなんて最高だ。 肝心のジンは、ヨモギとか色

秘伝のソース

  文字ベースの同人誌を出す友たちよ、原稿の作成にはどんなツールを使っていますか?  私は昨年から「LaTeX」にドはまりしており、ここ最近は主催するアンソロジー編集のため、このLaTeXにかかりきりの日々である。  LaTeXはもともと、「数式や図表をとっても美しくPDF出力できる」ことを売りにしている文章作成ツールだ。同じく数式や図表を挿入可能な文章作成ツールであるWordとよく比較される。私もLaTeXと出会う前は、主にWordを使って小説同人誌の原稿を作っていた。  この二つのツールには、いくつかの大きな違いがある。  一つは文章の編集方法だ。Wordは白紙に似た版面を見ながら文章を編集していくけれど、LaTeXでの編集にはソースコードを使う。コードの手触りはHTMLやCSS、あるいはPHPに似ているように思う。定められたソースコードを打ち込んで出力(コンパイル)すると、その指示通りにPDFが作成されるのだ。  もう一つの大きな、大きすぎる違い。それはルビがとんでもなく美しく振れることである。  小説の同人誌をWordで作ったことがある方は既に嫌というほどおわかりかもしれないが、Wordでの小説原稿作成は、Wordのちょっぴり……難解で……ちょっと以上に親切な……自動補完システムとの戦いだ。  この自動補完システムのお陰様で、Wordで文字にルビを振ると、そこだけ行間がたっぷりと確保される。行間がたっぷりと確保されるせいで、ページあたりの行数がその部分だけ自動で変更される。ときには一行あたりの文字数も自動で「調整」される。  問題は、その「調整」がどんな理由で、どの場所に、どのくらい行われたのかが編集者には判別しがたいことだ。特に「どの場所が、どのくらい」勝手に変えられたのかわからないのは致命的である。だってどこを、どのくらい直せばいいのかわからないんだもの。ひとたびWordの自動調整が発生してしまったが最後、我々は「たぶんここの数値が原因な気がする」と思われる箇所をこつこつ、0.5ptだとか1ミリだとか細かい単位で増やしたり減らしたりしながら、崩れた版面を目視で元通りにしていくしかない。  あああああ!  これが〆切直前に発生するともうだめだ。  ああああああああああ!!  そんなわけで満身創痍になった私が「イラつかずに済む文章作成ツール」を探した末、たど

杜の都へ

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 今日は昼過ぎまで仙台にいた。 24 日から二泊三日の旅程で滞在していたのだ。仙台は初めてだったので、青葉城址で伊達政宗公の像を拝んだりするかと思いきや、そんなことは全くなかった。 旅の同行者は両親である。両親ともに旅好きで幼少の砌からあちこち連れて行ってもらい、無事私も今年は 6 月・ 8 月・ 9 月・ 10 月・ 12 月に新幹線に乗って出かけるような人間に育ったが、 3 人での旅行は随分と久しぶりだったようである。 15 年以上か?母とは 4 年前に屋久島に行ったぶりだ。春にジャガイモ掘りのための帰省のおり、たまたま温泉に行きたいという話をしていたら行くことになった。平日 2 日連続で有給休暇を使ったのだから、これが夏休みだと言えなくもない。 両親も確実に年老いてきたし、いつまで出かけられるかわからないからなという思いもあった。私が体力の衰えを感じるということは、あちらはもっとであろう。記憶にあるようなあちこち回る強行軍はもうできまい。新幹線とホテルがセットになったフリープランを旅行会社で申し込んだようだがどんな旅程になるのかしらん?と思いながら、東京駅で待ち合わせたら、あんたはどう回るつもりなのかと問われ、決めてないけどと答えたら、(あんたは仙台初めてでしょう、私たちはそれぞれ行ったことあるから)別行動にする ?と冗談半分に言われて笑ってしまった。いや、単独行動好きだからええですけどね。それは家族旅行なのか。行きたいスポットの確認をしたら、動物園と水族館が挙がったのでひとまずそれはご一緒しましょうということになり、一応家族旅行の体は保てることになった。 2 時間ほどで仙台駅に到着、なんだか立川駅みたいだなという感想を持つ。東北最大の繁華街にそれは失礼かもしれないが。まず昼食。私は分厚い牛タンを心ゆくまで食べたかったが、父がそういうのは好かないので駅ビルのレストラン街で郷土色のある和食の店に入った。せめてもと、牛タンとはらこ飯と白石温麺のセットを食べた。 地下鉄東西線に乗り、八木山動物公園へ。ちょうどフリーフライトショーの時間で、ルリコンゴウインコやソロモンオウムの飛翔、ハリスホークを間近で見ることができた。 ホテルの送迎バスの時間が決まっているので、足早に見て回る。パーク内のサインが少なく、どこに向かえばいいのか順路が分かりにくい印象を受け

蟷螂

帰りの電車で扉のわきに立っていたら、思わぬ客が乗り込んできた。 かまきりである。 きれいな若葉色に茶色がひとすじ、秋の気配をまとった立派な大きさのかまきりがいつのまにか足元に同乗していたのだ。 こちとら武蔵野の原っぱ育ち、虫の一匹くらいで騒ぐわけもなく、ひとまず見守る。次の駅まではもう少しかかる。その間にひょいと捕まえて外に放してやればいい。 そう思っていたのだが、おとなしく思う通りになるかまきりではなかった。のしのしとこちらに歩み寄ったかと思うとスニーカーに乗り上げ、あろうことか私の左脚を登り始めたのである。大きい上に脚が六本もあるものだから、登攀ペースの速いこと速いこと。みるみるうちに私の肩まで登りつめ、じっと見つめ合ってしまう。 かまきりの眼というのはだいたい緑色だと思っていたのだが、かれの眼は真珠のようなつぶらな黒で、二重の意味でどきどきしてしまった。そんな私の気持ちなど置き去りに、かまきりはわたしの肩を乗り越えて首筋にまわる。 おいおいどこへ行く。さすがに背後をとられて黙っている私じゃないぞ。 ぶるぶると頭を振ったら、どこかへ飛んでいってしまった。と思ったら、向かいの座席の窓にとりついて他の乗客を驚かせている。車内換気のために薄く開けられた窓のへりにうまいこと回り込んだところをほろ酔いのおじさんに追い出され、それがかれを見た最後となった。 外はずいぶん涼しく、月も明るい。 虫にとっても過ごしやすくなったことだろう。 かまきりも私も達者で秋を楽しみたいものである。

言語化欲

 三鷹で『#レター 拳を掲げよ、天国へと掲げたアンテナのように』というお芝居を観た。  大学時代の友人が「(劇)ヤリナゲ」という劇団を立ち上げていて、その新作公演があるというので数年振りにチケットを取ったのだ。  いやあ、すごかった。  私が自分のアンテナをもって演劇を探したら、ぜったいに興味の対象にならないだろうタイトルと宣伝方針。しかし実際に観ると毎回おもしろいのである、この劇団は。  ううん、いや、けれども。「おもしろい」というと、正直なところ語弊がある。  今回は特にそうだったけれど、この劇団のお芝居はものすごくゆっくりだ。何がゆっくりかというと、登場する人間の各種刺激に対する身体的な反応と、心の動きが。これまでの経験から「これは意図されたゆっくりだろう」と推測できるにもかかわらず、上演中になんども我に返ってしまうくらいに。そして、あまりのゆっくりさに苛立ってしまうくらいに。そのくらい、とてもとても、ゆっくりなのだ。  自分が観ていて苛立つお芝居を「これおもしろいよ!」と人にすすめたら怒られる気がする。だから「おもしろい」と断言するのはちょっと気が引ける。でも、そのゆっくりさが、私にはとてもおもしろい。  そういう劇団のお芝居を数年振りに観て、やはりそのゆっくりさに苛立ち、苛立ちはさておき、やはりおもしろいとも感じた。苛立ちは苛立ちのまま、動かしがたく在るにもかかわらずだ。  おもしろいと感じる理由はいくらでも思いつく。たとえば「私は選択しないタイプの表現方法だから」だとか、「動かぬ身体は引き延ばされた時間の象徴であり、その引き延ばされた時間をおもしろく眺めるという体験が、小説の“描写”を味わうことに通じているから」だとか。  だけど、どれもしっくりこない。ずっと考えていると「もしかして、おもしろかったと思い込みたいだけで、本当はそんなにおもしろくなかったのか?」という悪魔の囁きすら聞こえてくる。いや、でもね、本当におもしろかったんですよ。自分の中で理屈を通せないだけで。  理屈を通せないとおもしろくない、ということはない。それでも理屈を通したい、つまり言語化したいと思ってしまうのは、もう文芸をやる人間の業かもしらんね。そんなことを想うお芝居でした。  このお芝居が上演された場所は、三鷹の「SCOOL」というインディペンデント・スペース。インディペンディント

あまがえるのあまやどり

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天蛙という日本酒がある。 あまがえる、と読む。 新政酒造という日本酒呑みには有名な秋田の蔵で作られる低アルコール微発泡のお酒で、私はこれが大好きなのだ。 いや、私はお猪口一杯も飲み干せないくらいの筋金入りの下戸なのだが。 その弱さと言ったら献血のアルコール消毒で肌が赤くなり、粕汁で動悸息切れを起こすレベルである。 では、下戸のくせに天蛙の何を知っているのかと嗤われそうだが、フィナンシェヤクザの前はペロリスト活動に勤しんでいたので。 いや、ペロリストってなんだよ。 周りに日本酒好きが集まっていた時期があり、コロナ前ということもあって居酒屋に行くたびに一口ずつ味見をさせてもらっていた。 酒を舐めて伝わりそうで伝わらない感想を言う人のことを勝手に「ペロリスト」と呼ぶ。私の場合は日本酒を舐めると、物語の断片がレシートの如く排出される体質なのでそのカケラを集めて7冊ほど幻想散文同人誌を作った。 300酒以上を舐めて、どんな酒が好みかがだんだんとわかってきた。 日本酒と一括りにしても、タイプは様々である。フルーティなもの、華やかなもの、きつく鋭いもの、口に残るもの。昔ながらの醸造用アルコールを添加された普通酒は苦手だ。フルーツぽさもメロン系、バナナ系とあるが好みはリンゴ系である。甘酸っぱさが好きなのだ。カルピスのような乳酸菌感もよい。 で、2016年から今日に至るまで天蛙が1番刺さっている。 普段ならアルコールに対する命の危機感に自制をきかせられるのに、呑み口の軽いおいしさに辛抱堪らず通常の倍以上舐めすぎて金縛りにあったがごとく体が動かなくなったことがあるくらいである。まったく危険な酒だ。 この天蛙、たまに立ち寄る酒屋で連日張り込みをしていれば買えた時期もあったが、ここ数年はショーケースに並ばない。新政酒造の酒は希少価値が高く、おそらく入荷しても贔屓の間で消えてしまうのだろう。酒が飲めない以上常連にはなり得ないので、買うことは諦めた。さて、秋葉原の魚や藤海という居酒屋がある。 旬の魚を始めとする工夫を凝らしたおいしい肴があり、日本酒に詳しいチャーミングなおかみの接客を受けられるいい店だ。いい店だったのでそこのTwitterをフォローしていたら、2年前、入荷した日本酒写真の投稿の中に天蛙があった。天蛙ー!引用RTで叫んだ。すぐ店にも行った。おかみに天蛙が好きな旨を伝え、空き瓶をも

収穫期

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今日こそ仕事以外の話をするぞ! 先日、ひじきさんにぶどうを分けていただいた。 たまたまご近所というだけで、彼女の「食べてみなきゃわからない」のおこぼれにあずかっている幸せな食いしん坊とは私のことだが、大粒の宝珠を連ねたような房の包みを覗き込み、心底から感嘆の声が漏れた。 このサイズで房の半分だってよ! どちらも得も言われぬぱつんぱつんの輝き、これを私は少しずつもいでは大事に食べているのである。 色の淡いほうは甘みが強く、色の濃いほうはしゃりっと音のする歯ごたえが新鮮で、身が詰まっているぶんあっさりしている。ぶどうでしゃりっと食感なんて初めてだったので、ひとくちかじって「おもしろーい!」とにこにこしてしまった。繊維は多そうなのにまったく筋っぽくないのだ。どうしてこうなった。最高だ。 闇取引(駅で待ち合わせて分けていただいただけ)のときに品種名も聞いた気がするがどこかに落としてきてしまった。農園オリジナルの希少な品種だそうだから、名前を覚えていたところでまたお目にかかれるかは別の話である。が、近い将来また食べたくてのたうちまわるような気がしている。 まあ、まだ冷蔵庫にとってあるんですけどね! 食べ物の話でもうひとつ。 昨日は仕事終わりにいつもの上司が行きつけの焼肉屋に連れ出してくれた。 仕事は終わったというか、むりやり強制終了させたようなものだったけど。 自部署宛にきた請求書をとりまとめて経理に出す期限が迫っていて、以前はそれだけやってればよかったのが今は業務の幅が広がっているためなかなかまとまった時間がとれず、「焼肉行けそうにないっす」とメッセージ送ったら「息抜きも大事だ、いいから来い」(意訳)と叱咤されてなんだか諦めがついたのである。 あ、大丈夫です今日なんとなく終わるめどはつきました。 全社的にいろいろ過渡期なので上司たちも溜まっていたらしく、夜も遅いのにまあ食べて呑んでしゃべる。私のような新参者ではなかなか知り得ないような話も聞けるし、ぺーぺーの率直な意見にも耳を傾けてくれるのでとてもおもしろい。そしてビールと肉がうまい。 話をしていると、仕事に対する姿勢(という言葉はあまり好きではないが)を評価してくれている気配もあって、働き方そのものはまだとんちんかんなことも多いが《ただなんか面白いやつ》からすこし昇格できたようだ。 それにしてもいい焼肉屋なんだ、お店の人は

カブトムシの木

 アパートの共用通路に植えられたトネリコが、ものすごい勢いで成長している。  植えられた当初は私のふくらはぎの半ばほどの背丈しかなかったのに、今では私の身長を軽く越え、通路の天井を艶やかな葉でさわさわと撫でているほどだ。天井にぶつかっても頭打ちとはゆかないようで、枝の先を暖簾でもくぐるようにチョイと傾げ、まだまだ上を目指している。  共用通路には砂利が敷いてあり、植物を育てるには向かないように思う。そんな環境にも関わらず立派なものだと、共用通路を通るたび感心しながら見上げている。よく育つ植物というのは見ていて気分がよい。  この日記を書くにあたり調べたところ、くだんのトネリコはシマトネリコという種類らしく、最終的には十メートル以上にもなるようだ。今は三メートルに届くかどうかというあたりだから、この三倍のサイズにはなるということだろう。  ところでうちのアパートは、住民による勝手な植栽を禁じている。  大家さんや管理会社の方がいつ気づくだろうかとハラハラしながら様子をうかがっていたのだが、こうも大きくなるまで放置されているところをみるに、あのトネリコは住民と関係者諸々の暗黙の了解を得ることができたのだろう。  シマトネリコは樹液豊富な木でもあり、またの名の「カブトムシの木」というのだとか。カブトムシを寄せるほどのサイズになるその日まで、ぜひ健やかにがんばっていってほしいものだ。

ご説明いたしましょう

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 食べ比べ会が身近なものとなっている、そんな土日の話。 もともと「知るためには食べなくてはわからない」が私の信条だ。 フィナンシェを1000個も食べ続けているような人間だし、コンビニを巡回してファミチキ・Lチキ・ナナキチを一気に食べたこともあるし、シリーズで出たものは一通り食べてみてどれが自分好みかを決めたりすることは昔からあった。好きも嫌いも決めるには、他の物を知らないと基準がわからないのだ。味覚に自信がないものだから、いきなりズバッと判断できない。なるべく選択肢と比較材料を知りたい。 あと農作物に関しては品種が好きというのもある。 同じ作物なのに、色や形が多様で育種開発命名された来歴が違う。 同じ作物なのに、作られる産地や農園、年で味がだいぶ異なる。 農業のことは何もわからないけれど、なんかそういうのおもしれぇじゃん。 そんな私はここ数年、毎年リンゴを100種類食べることにしている。100というのはキリがいいから言っているだけで、実際数えると120は超えているのだがまあ、誤差だよ。 リンゴ100種類なんてどこで売っているのかとよく訊かれるのだが、ちゃんとそういう変な八百屋があるのである。 その怪しいことこの上ない八百屋に足を踏み入れようと思ったのは、ジャガイモがきっかけだ。数年前、ジャガイモ沼(ポタージュ)に足を突っ込み始めていた私は、珍しい品種のジャガイモがないかを探るべく、いままで素通りしていたその門をたたいた。そうしたら、聞いたこともない名前のリンゴが売っていた。リンゴねぇ、久しぶりに食べてみようかしら……そうして買ったリンゴが妙にその時の自分にしっくり来た。やだ、おいしいわ。しっくりは大切だ、そして危ない。 そうして、リンゴを食べるようになり、その八百屋に全品種(同品種農園違いも含めて)取り置きをお願いするようになり、収穫の最盛期である10月~11月などは家がリンゴであふれかえるので、友人・知人におすそ分けするようになった。特に去年は吉祥寺のブックマンションを経営するのNさんと知り合ったのをいいことに、Nさんのもとに毎週のようにリンゴを運び、その時店にいるお客さんにも品種の講釈をたれながらおすそ分けをした。その場に草群さんも呼びつけていたら、草群さん抜群の吸収力で、リンゴの解像度がぐんぐん上がっていくのを目の当たりにした。 で、Nさんにすっかり「リンゴの

休みじゃ

九月の三連休に突入した。 先週の土日は電車に乗り倒して喋り倒したため「お休み」というよりは「遊び」の日で、続く平日がだいぶハードだったため今日は午後のほとんどを昼寝に費やした。 目が覚めたらまっくらだったよ。はっはっは。 なにがそんなに大変だったかというと、この一週間は部署内メンバーが現場対応でそれぞれ別の場所に散っており、新オフィスでひとり留守番になったために頼まれごとがひっきりなしに飛んできたのである。企画進行中のグッズサンプルや預かり物の展示品チェック、トラブル対応で急遽発生したウェブページの作成など、「ちゃんとやったことないけどやるしかねえ」事案が多数発生し、戸惑ってる時間はないのでまだ名前もうろ覚えな他部署の人に泣きつきながら打ち返し、落ち着いた頃にやっと自分の事務処理や企画進行に取り掛かる、という日々が続いた。 昼食として持ってきたはずの豚キムチ丼(自作)は暮れなずむ東京の街を見下ろしながら噛み締めることになったし、デスクではたと顔を上げると他部署の島はガラーンとしている。そこから今日中にやらなきゃいけないことを再確認して退勤カウントダウンに入るのだ。土日に休息をとらなかったこともあって、水曜にはもう白目を剥きかかっていた。 こう振り返るといかにもしんどそうに見えるが、実はそうでもない。 体力的にきついのは確かで、一度など寝坊で危うく遅刻しかけたものの、ストレス負荷がほとんどかかっていないので疲れの質が違うのだ。 転職が多かったこともあって、下っ端根性は染み付いている。人から指図されることに抵抗がないというのは、意外に得難い資質なのだとこの歳になって感じる。おかしいなと思ったら疑義を申し立てるけど、相手だって必要だから依頼してくるわけで、イラっとしてる暇があったらさっさと取り掛かって片付けてしまうに限る。そのほうが喜ばれるし、次のこともできるし、一石二鳥である。やってくださいと言われてムスッとするタイプの方は生きづらかろうなと思う。 昔お世話になった上司が、仕事はスピードだと言っていた。作業をさっさと終わらせて、いかに本丸の「仕事」に時間をかけられるか。作業のほうのタイムアタックも楽しんでやるし、企画作成やデザインのディレクションだって面白い。結局どちらも好きなので、まるで苦にならないのである。同じ企画職の同僚が心配して声をかけてくれたが、「意外と元気で

生活を面白がる

  健康診断! 健康診断ね……会社員だった頃は定期的に受診していたのだけれど、自営業になってからしばらくサボっており、先日ついにお医者さんに叱られてしまった。  さていつからサボっているのだったかと手帳を繰ってみれば、なんと最後の受診は四年前であった。叱られるはずだ。この年齢になって先達に叱られるというのは、それも技能の不足や粗忽さについてではなく、人としての暮らしぶりについて諌められるというのは――なんとも堪えるものがある。もう三十年余りを人として生きているというのに、このていたらく。失礼ながら、草群さんの日記にあった歯医者さんでの出来事に想いを馳せつつ、健康診断の予約をした。「ここらでちゃんとできてよかったね仲間」がこんなにもすぐ側にいる。勝手に勇気づけられています。  そんなこんなで健康診断の予約をしたら、まだ八つ時を過ぎたばかりだというのに、すでに一仕事終えたような気になっている。  健康診断の予約しかり、お役所系の申請書類しかり、私は「定期的に思い出して誰かに連絡すること」を求められる作業がかなり苦手だ。税務処理はずいぶん前に税理士さんに放り投げてしまったし、荷物の再配達の依頼は滞らせがちだし、以前の日記だったかコメントだったかで言及していた歯医者さんの予約もまだできていないし……。  いつだかに読んだ星野源さんのエッセイ集に『そして生活はつづく』と題されたものがある。何かの雑誌の連載をまとめた本だったと思うのだが、その連載の始めのほうにあたるエッセイで、彼は「昔から生活が苦手であり、この連載では苦手である生活を面白がるためのエッセイを書こうと思った」という意味合いのことを仰っていた。  読んだ当初は、彼が公共料金の支払い用紙を失くす一連のエピソードなどを純粋な共感とともに拝読したものだが、思い返せばあのエッセイの「苦手である生活を面白がるために行動する」という流れのほうにもっと着目していたら、私の今の生活態度も、もう少し違ったものになっていたかもしれない。  いや、しかし、それならば。  この交換日記は私にとって「苦手な生活を面白がる」の一環になっているように思う。  ひじきさんの日記を読んで健康診断の予約をしたり、りんごの命名法則に興味を持ったり、草群さんの日記を読んで「そうだ、私も歯医者に行こうと言っていたんだった」と思い出したり、最近失っていた遠出

炭酸水ではまぎれない

 さて、今日は仮面ライダーに登場する V シネのヤクザについて書こうか、それとも会社でノリと勢いでいい子ぶった提案をした話をしようか …… と思ったが、今晩はなるべく労力を使わずに早く床に就かなければならない。憂鬱がやってくる前に。 それは年に一度必ず訪れる憂鬱だ。 何かと言えば…… ケンコーシンダン! 今の体が健康かどうかを様々な角度から測定する診断! 別にいいのよ、診断されるのは。むしろ、自分が数値で表されることを私は昔から楽しみにしている。 テストの点数も学校での順位も、精神年齢でも献血をすると教えてもらえる血液成分の値でも、てめぇでてめぇのことに何一つ自信がない中、外部的な物差しで自分の位置を知ることは興味深い。 今担当している会社の取り組みは年に 1 度支社別のランキングが発表されるのだが、弊部署を全国 1 位のてっぺんにしてみせたのだって、ゆるふわな基準ではなく目に見えてわかる数値があったからだ(この話はまた別の機会に) なので、健康診断の結果はすぐにでも見たい。うわっ…私の数値低すぎ…ガハハとかしたい。 ただ、そのためには食事を抜かなくてはいけない。 これが憂鬱だ。 たかが一食と笑われてしまうかもしれないが、毎年一大事である。 食い意地が張っているだけでなく、そもそも燃費が悪いのだ。 3 食満足に食べたってちょいちょい腹が減る。 朝なんか電車に乗る元気を出すために家で食べて、出社してからも昼まで生き延びるために職場で食べる。 なのに、明日は朝ごはんを抜かなくてはいけない。健康診断に申し込んだその日から、意識のどこかにそのことがある。 低血圧って言われましてもねぇ、ご飯食べれば元気なんですよぉ、正確な数値を出すためとか言って食べさせてもらえないから、そりゃ何度計ったって上 70 しかいかないわプンプン。 以前、献血の話( https://murakumoyama.blogspot.com/2023/08/blog-post_6.html )を書いたように、血圧測定と採血は慣れたものである。採血に至っては、どちらの腕の血管がよく浮き出るかエスコートできるし、太く見えて柔らかいので逃げないように注意が必要なことを喚起できるし、針を刺した後に握った手を開くタイミングは言われなくてもわかる。そのくらいし

週末のはなし

いま、あたらしいMacBook Airでこの日記を書いている。 うわあい、もうバッテリーの心配しなくていいぞ! 昨晩は退勤後にダッシュでApple Storeへ駆け込んで、帰ってきてから新旧移行作業をしていたのであとは寝るので精一杯だった。 というわけで、一日あけて週末のことを振り返る。 てっぺん回るまで働いた日の翌土曜日、思いのほかまともに起きられたのでサッと身支度と荷造りをし、そのまま歯医者に向かった。 めちゃくちゃ深い虫歯のめちゃくちゃ深い削り孔を埋めた仮詰めをどうにかしようという日だったのだが、歯科医・歯科衛生士ともに私の荷物を見てはたと手を止めた。「このあとおでかけするならやめときましょう」と口を揃えて大工事は延期となり、代わりに正しい歯磨きのやり方を叩き込まれてきた。 私のやり方は大変荒く、またろくに意味をなしていなかったらしい。それでよくここまで生きて来れたな。歯科衛生士さんに「そうそう、上手ですよ〜」と照れくさいやら情けないやらの指導をみっちり受けて、以来おかげで私の歯は嘘みたいにつるりとしている。 口腔内はさっぱりしたがけっこう恥ずかしかったので、ダメージの余韻をひきずりつつ電車に乗り込んだ。 青春18きっぷで一路東京、ダーッと駅ナカを早足でまわって友人たちへのお土産を手配し、東海道線に乗り継ぐ。熱海、浜松、名古屋。熱海までは旅行客がたくさんいて、浜松行きは途中の駅でライブがあったらしく混雑しており、とてもとても座れなかった。都心と違い、長い距離を走る電車はボックス席がたくさんあるから立つスペースが限られている。人の多いなか足元に荷物を置いていると、時に変にねじれた体勢を保つ羽目に陥って攣りそうになる。こうなると正直だいぶしんどいが、本やスマホの画面からふっと顔を上げたときに目に入る車窓の山々、実りの気配に揺れる田んぼ、乗っては降りていく地元のひとびと、東西武将の看板を掲げた関ヶ原駅など、面白いものにさまざま出会える。 この「ふと顔を上げたときに」くらいがちょうどいいのだ。あくまで目的は移動だけど、他の楽しみかたはいろいろある。それが鈍行列車のいいところである。 青春18きっぷは乗り降りし放題なので途中駅で降りてみてもいいのだが、この日は名古屋まで行かねばならない。東海道線はまだ多い方だが、数分に一本必ずやってくる都心の電車を想定して動くと大変危険

月に一度のお楽しみ

 吉祥寺のハモニカ横丁中央通り朝市にて、文芸同人誌を売ったりフリーペーパーを配ったりした。   ハモニカ横丁というのは、JR吉祥寺駅から歩いて三分もかからぬ場所にある、古式ゆかしき飲み屋街だ。狭い小道の両側に小さな飲み屋や商店がひしめき合っていて、その様子が楽器のハモニカのようだというのが名前の由来らしい。  そんなハモニカ横丁で、毎月、第二の日曜日に開催されているのが「ハモニカ横丁中央通り朝市」だ。朝市の日はハモニカ横丁の狭い小道に、参加者各々と、その各々が持ち寄った売り物がひしめき合う。雑貨を売る者あり、串団子を焼く者あり、似顔絵師あり、占い師あり――その末席にちょんと座らせて頂き、文芸同人誌を売りし者が私である。  参加し始めたのは、今年の三月だか四月だか。それ以来、おおよそ毎月、欠かさず参加している。「おおよそ」と但し書きがつくのは、雨の日はお休みしているからだ。紙の本は水に弱い。  さて今朝はといえば、雨の心配など欠片も要らないお天気だった。むしろ日差しが強すぎるくらいだ。朝市の開始は八時。それに間に合うよう家を出て、お釣りの百円玉を入れていたポーチを家に置いたままであったことに気づき、慌てて引き返した上でハモニカ横丁に到着した頃には、まだ何も始まっていないのに汗みずくであった。  ひいこら言いながら店の支度を整え、見知ったお隣さんからの労わりの言葉をありがたく受取り、ひと息つく。この朝市、人が大挙して押し寄せてくるような催しではないのだが、今回は吉祥寺の秋まつりと日程が被っていたせいか、横丁はいつもより賑やかであった。  お隣さんと一緒にぼんやりと店番をしつつ、この暑さはことによると十月まで続くらしいだとか、井の頭公園はどうして「いのがしら」ではなく「いのかしら」と、濁らせず読むのだろうとか、とりとめのないお喋りに興じる。こんなに商売っ気のない態度で過ごしているのに、人がやってくると、どちらからともなく話をやめて「おはようございます」「手に取ってご覧になってってください」など店の主の顔に戻るのがなんだかおかしい。しばらくすると知人が様子を見に来てくれたり、同じ朝市に出店している人が店の番を放り出してお喋りに来たりする。朝市に出店し始めてから「なんか新しいの入った?」と毎回訪れてくれる、いわゆる常連さんもできた。  そうそう、これこれ。これが楽しくって朝市

現状腹つつがなく

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 新小岩にて行われた女子会研究会の定例会に出席した。 女子会研究会とは「女子会がなんたるものかわからないまま年を取った女子が集まっておいしいものをしこたま食べる会」である。 2019年10月にHさんとCさんとひじきの3人で発足し、2022年に新レギュラーにNさんを迎えた。コロナ禍で中断した時期もあったが、開催は基本的に毎月1回で累計30回を超す。めちゃめちゃ研究してるな、おい! 6歳ずつくらい離れている各世代の女達で、性格も外見も方向性はバラバラなのだが、会員の誰ひとりとして本当の女子会がわからない。正しい女子会に呼ばれる機会が、人生においてなかったのである。どろどろした人間関係をこねくり回したり、心にもない共感ビームを発射したり、マウントの取り合いの場にそぐわないと判断されたのかもしれない。それは……そうかもしれない。 しかたがないので、毎回食事会場で「これは女子力が高いポイントなのでは!?」「それはとても女子!」ととってつたけたような研究を行っている。 たとえば、パクチーは女子!とか、バイスサワーはピンクでかわいいから女子!とか、魚卵はキラキラしてジュエリーみたいだから女子!といったポイントの付け方である。 過去最高に女子会ポイントが低かったのは、クリスマス直前にトナカイの肉を鍋で食べた時だったと記憶している。各種珍獣肉の暴挙を尽くし、「睾丸ください」も連呼したので始末に負えない。 今日は久しぶりに初期メンバーの3人で集まった。 新メンバーのNさんはお酒とお米大好き女子だが、バレリーナでもあるので発表会が近いと土日祝はレッスンに費やされ、体を絞るのだ。今回の定例会はパスするという。 Nさんがいないのならば、辛い物を食べようとそういうことになった。4人の中ではNさんが一番辛いものに弱いので、メニューを選ぶときの辛さチェックはもちろん、店も南インド料理や四川料理などは避けがちである。 会場となる店は毎回、各自が出した候補の中から話し合いで決定するが、今回の店を提案したのはCさんだった。孤独のグルメでも紹介されたことのある貴州料理はどうかというのだ。 貴州料理というものを私は初めて知ったのだが、貴州省は中国の西南地区、四川省に隣接した地域で、料理も唐辛子を多用する四川料理の系統にあたるらしい。 中国のことわざに「四川人不怕辣,湖南人辣不怕,貴州人怕不辣」というのがある

てっぺん

ついに越えてしまった…… 職場で零時を迎えるのは何年ぶりか 自分の不始末を片しに引越し前の社屋(別部署がまだ稼働している)に作業しに行ったら 「ちょっと手伝えばなんとかなりそうな大変な現場」に出くわしてしまって ついヘルプを買って出てしまったのである。 ああー まー、自部署の繁忙が原因の追い込みだったので、手伝うっていうか言葉通り他人事ではなかったのよね。「じゃ、おつかれさまでーす」って帰れる神経は持ち合わせていないようで。悪いことではないが無理は禁物、新オフィスで先に退勤した同僚にめちゃくちゃ心配されてしまった。 いやー気をつけよう。 でもまあ、性分なんだなあと思う。こういう目に陥らないよう段取りできる人間になりたいものだがこの仕事、段取り外のイレギュラーが猛烈な体当たりをかましてくるので、単純にスピードを上げるほかないのかもしれない。 楽しむためにはある程度できるようにならないといけないって本当だなあと思う。 さすがに今日はしんどかったが、オフィス移転で分かれて働くことになった他部署の人と話せたのは楽しかった。「わー会いたかったよー!」って嬉しいもんですね。 そんなかんじで帰宅して家のことやったり日記をしたためたりしていたら草木も眠る時間がやってきたけれど、明日(もう今日)は青春18きっぷで名古屋まで行く。一泊して、翌日大阪まで向かう予定だ。 すべて鈍行、またゆっくり本読んだり眠ったりして、英気を養うぞ。

藍色のペンケース

 ひじきさんの昨日の日記を読んで「なるほど」と思った。省エネ日記の日、確かに大切である。  そんなことを考えながら帰宅をし、すっかり寝落ちていた。省エネも何も、エネルギーが足りていなかったようだ。最近こんなのばかりな気がする。どこかでしっかり休んでリセットしたいものですね。  昨日は万年筆にインクを入れた。私はセーラー万年筆の細字タイプに、パイロットのブルーブラックインクを入れて使っている。細字といっても、万年筆はボールペンと比べると文字が太くなる傾向にあるため、ゲルボールペンでいうところの0.7~1.0くらいはあるように思う。  この万年筆、何食わぬ顔で使っているためか突っ込まれたことはないが、某漫画のキャラクターグッズである。もともと私は〈推しの概念〉を愛でたいタイプのオタクだ。以前はプレピーというカラーバリエーション豊富な入門万年筆を概念に見立ててキャッキャしていたが、後に公式から、まさしく推しそのものを概念化した万年筆が発売されると聞いて一も二もなく買ってしまった。お値段は送料込みで22,550円。今のところ、私の手元にある最もお高いキャラクターグッズである。  この件について思うまま書くとさらに長くなるので、それはさておき。  万年筆にはインクを溜めておくカートリッジがついている。インクが出なくなったら、万年筆のペン先をインク壺にひたし、カートリッジのお尻についた螺子を回す。するとペン先からカートリッジへと逆流するような形でインクが補充されていくのだ。  補充が終わったらペン先をインク壺から引き上げ、余分なインクをティッシュなどで丁寧に拭く。  この、最後の工程が面倒なのだ。可能な限りやりたくない。手が汚れるし、せっかくのインクをティッシュに吸わせるのも業腹である。何よりインクを補充したら、チマチマと何かを拭いたりせず、すぐさま書き始めたい。  万年筆の先達もみな同じようなことを考えておられたようだ。先日、このフラストレーションを解消する素晴らしい方法を知った。  まずインクが切れたら、カートリッジを万年筆の本体から外す。カートリッジのお尻についた螺子はギリギリまで回して、カートリッジ内の容積を可能な限り増やしておく。そこに、スポイトで吸い上げておいたインクを直接流し込んでしまうのだ。あとはインクがなみなみと満ちたカートリッジを万年筆の本体にセットし直すだ

ポストが遠い

 今日はヤモリのことでも書くかと筆を執ったのだが、いや、待てお前は今日疲れているだろうと思い出す。やるべきことは色々あるが、まずはご自愛が何より、夜の時間は布団に寝ころびタオルケットをもみしだき読書をする時間に充てようと決めたではないか。ヤモリのことなど書き始めたら長くなるに決まっている。ちょろちょろっとした省エネ日記の日を作っておくことも今後の自分のためになるだろう。 何に疲れているかと言えば、仕事だ。月初1~10営業日はもともとやるべきことが多い期間である。決められた締め切りまでにあれやこれやして収めるものを収めないといけないので、どうしたって定時で帰れることは少ない。これは毎月のことだ。ただ、加えて今月は、10月から始まるインボイス制度対応のシステム変更とそのエラーチェックとリカバリーに余計な時間を何日も割いている。月初にやるもんではない。ほんと、インボイス、おまえ、やると決めたえらい人以外からは愛されない子だよ。 今日は切手を買った。ようやっと買った。 1か月前から買おうと思っていたのだ。切手さえあれば、懸賞に応募できるからである。 しかし、コンビニは普段セルフレジを使いがちで、わざわざ有人レジで切手くださいと言うのが億劫だった。 2週間前、一念発起して言ってみたら、間違えて84円切手を買ってしまった。懸賞は専用はがきで行われるので本来必要なのは63円だ、くじけた。 先週、気持ちを立て直しリベンジするべく別のコンビニで言ってみたら、63円切手の取り扱いがない店だった。くじけた。 仕事中に郵便局に行けばいいのかもしれないが、一度オフィスに入ってしまうとトイレ以外は階下に降りてコンビニに行くのも面倒なのである(散歩好きはここでは発揮されない) やるぞと決めたらすぐやらないと、タイミングを逃してどんどん先伸ばしにしてしまう。 電話予約や銀行振込やふるさと納税や、なんやかんや、そういう人間の生活めいたものが、できなくはないが、そんなに得意ではないのだろう。仕事ならば割り切っているのでそうでもないのだが、私生活では1日に少しずつだ。 であるから、切手を買うのも1か月かかった。今朝はいまなら言えると思ったので言ってみたら、ちゃんと63円の取り扱いがあり、その日のうちに葉書を投函することができた。 当たりますように。

いよいよ寿命だ

パリ五輪を決めたバスケ日本代表のハイライトを観ながらこの日記を書いている。 大きくて余裕と緩急のある、無駄のない動きって本当に美しいな。 ノッているときのスポーツ選手から発する覇気って、観ているこちらにまで良い影響を及ぼすような気がする。 さて。 表題に寿命と掲げたが、私のことではない。不慮の事故や病で命を落とすことはあるかもしれないが、寿命はさすがにもう少し先だろう。 なにかというと、いまぱちぱちキーボードを叩いている、このMacbookのことである。 購入から6年あまりが経ち、先日とうとうバッテリーステータスに「修理サービス推奨」と警告が出た。ちょっと重いデータをいじるとブーンと唸りだすし、バッテリーはなるほどみるみる減っていく。文章の執筆から画像加工にレイアウトデザイン、ウェブサイト構築まで私の創作活動の苦楽をともにしてきた愛機ではあるが、そろそろ世代交代の時期である。 というわけで。 後継機としてMacBook Air13インチミッドナイトを注文したぞー! 一週間くらいで届くらしい。近場のアップルストアまで取りに行く予定だ。いまのこの愛機は丁重に下取りへ送り出そうと思います。おつかれさま、あと少しだけよろしく。 寿命といえばもうひとつ、 勤めてまだ三ヶ月の会社の社屋がちょうど先週引っ越した。 これも建物の寿命によるもので、たしかにびっくりするほど古い、扉の建付けは悪いし屋上の水場は朽ちかけて灰を頭からかぶったようなビルであった。初めて面接で足を運んだ時は「ここ⁉」と周囲をぐるぐる回ってしまったものだが、かえってのびのびやれる建物でもあった。 そんな勤め先が、近場のもっと大きいビルに移ることになった。今度のビルは倍以上の高さ、そのうちの上層ワンフロアをわれわれ事務方が占めることとなり、倉庫機能は別の場所に切り離された。純粋に「オフィス」のみに絞られたのだ。へーん、かっこつけちゃって。 ところでこのオフィス、地上9階に位置するのだがべらぼうに景色がいい。 見下ろすお堀に武道館の屋根、手前のビルに隠れていたがおそらくスカイツリーのてっぺんらしきツノも望むことができる。 こうなるともう、毎日が展望台である。 観覧車好きにはたまらない環境だ。 同僚たちと「心はJKだから」などとのたまいつつ、窓から見える景色に好き放題いちゃもんをつけた本日の休憩時間であった。 いろいろ

詩人への期待

 休日の朝はいつも遅い。今朝は輪をかけて遅く、それというのも昨晩は『酒場詩人の流儀』というエッセイ集を読みながら酒を呑んでいたからなのであった。  この御本、著者は吉田類さんだ。あの「テレビの、酒場放浪記の人」である。  酒場放浪記とは、吉田類さんが各地の酒場を回り、その酒場の紹介など交えつつ、彼が酒と肴を楽しむ様を丁寧に撮る――そういう番組だ。  私はこの番組を特別に好んでいる。とはいえ我が家にはテレビがないため、もっぱら義実家に帰省する年末年始の特番などで拝見している。また義実家もなかなかの酒好きであるからか、通常放送のうち特に心に残った回などは録画を残してくれていたりする。夕飯の後、皆が集まる居間でテレビをつけ、吉田類さんの楽しげな赤ら顔をゆったりと眺めつつ、お風呂上りのビールなど頂くのが義実家での恒例行事なのだ。  吉田類さんのファン……を名乗るもおこがましいが、メディアでちょっとお顔を拝見したり、会話の中で彼の名前を聞いたりするとニコリとしてしまう。そのくらいの、同好の士へ向ける、ゆるやかな親愛を私は彼に向けている。  だというのに私は、彼の著書を読むのは初めてなのであった。エッセイ集を手に取り、真っ先に考えたのは「この本、何を飲みながら読むべきか」ということ。  私は最終的に、黒霧島という焼酎の炭酸割りを選択した。日本酒と最後まで迷ったが、きっと楽しいであろう御本と共に日本酒を頂いては酔いが過ぎ、文字を追うもおぼつかない事態になるだろうと危惧してのことだ。私がワクでないことが悔やまれるが、致し方なし。  実際のところ、この御本は酒に親しんでいるか否かを問わず楽しむことができる。むしろ、もし初読を酒と共に楽しんだのならば、その後、素面でもう一度味わい直すべき本であると断言してもよい。  いや、私も読んで驚いた。私は吉田類さんのことを、酒場放浪記のイメージから、(実に失礼ながら)てっきり、楽しく陽気な「だけの」酔いどれ紳士であると勘違いしていた。エッセイ集を読むと、その印象が覆される。彼は正しく詩人なのである。しかも、かなり高い教養を備えた。  このエッセイ集をお読みになった同士方々は、きっと旅に出たくなり、仕事で己の住まう土地を離れたなら、出先でその地の酒を呑まずにはおれないに違いない。そして自分が幼少期を過ごした地でどんな酒が醸され、飲まれているかに想い

類が呼ぶもの

 昨晩は浅草で夕飯を食べていた。 予定していたお好み焼き屋は冷房がないせいで臨時休業で、 22時までやっているという古い喫茶店は何も言わずシャッターが閉まっており、 この会を催すに至った主賓になるべき人はインフルエンザに罹って来られなくなり つまり予定していたものとは何もかも違う夜だったが、 浅草らしい昔ながらの雑多な定食屋は2階のお座敷席まで地元民で賑わっており、 二次会のムーディーイタリアンでは本来3~4人で1つをシェアするかき氷を何も知らず1人1つ頼んでしまい、味に飽き、食道まで凍り付く寒さに震えながら食べる経験はなかなかのもので、楽しかった。 やまおり亭さんがダイエットを試みたり、草群さんが仕事によって痩せようというときに、逆行した怠惰な食生活を送っている。 ええっ、二人ともそれ以上スリムになってしまうの? 別にお前は体を絞る必要などないではないかと思う節もあるかもしれないが、 今年8月になって、空腹時でも下腹がへこまなくなった。 本当は徐々に膨らみを保って増していたのかもしれないが、あまりにも体に興味がなくて意識したのが8月だった。 ガスだまりか、通じの悪さによるものかと1か月様子を見ていたが、どうもなくならない。 おお、これが代謝の衰えによる脂肪の蓄積、ついに来たのかぽっこりお腹!? と、感慨深かったが、それによって何かをすぐには変えようとしないのが私である。 まあ婦人科系疾患によるふくらみだと後が厄介なので検診に行くくらいはしよう。 それで心置きなく「これは脂肪!」と認識して現実を受け入れよう。 これから各部位どんどん受け入れることになるだろう。いままでの勘定が甘すぎたのだ。 ただ、食べたいものを我慢することは、その、ちょっと……困難を極めると言いますか……食欲の衰えが追い付いてないと言いますか……食わせろ。  浅草は今年の4月に知り合ったAさんにお声がけいただいたのである。 Aさんとの馴れ初めは、私の「興味関心への姿勢およびラベリング」によって引き起こされた。 吉祥寺にブックマンションというシェア型本屋がある。 以前のやまおり亭さんの日記にもあったように、やまおり亭さんが主催している文芸同人誌専門の招文堂もそれに属するものだが、 ブックマンションは商業本も多く取り扱っているので少しばかり毛色は違う。 私はこのブックマンションのZINE部(棚は持たず自