三回目への警戒心

この日記を始めてから、三回目の当番が回ってきた。
いよいよか、と密かに手に汗を握る。

思えば、何につけても満足に「三回目」を迎えられない人生を送ってきた。日記しかり、ラジオ体操しかり、「欠かさず続ける」ということが昔からどうにも苦手なのだ。

一回目はいい。何事であれ気力と、明日から始まる「毎日コレを続けている建設的な日々」への希望にあふれた心身で始められ、満足感と共に終えることができる。二回目も、マアおおよそ問題はない。まだ「毎日やるぞ」と決めた昨日の余韻が残っている状態だ。

しかし鬼門の三回目。初日の余韻はもはやなく、「毎日コレを続けることができれば手に入るはずの輝かしい日々」は「明日からも休まずコレをやっつけなければならない窮屈な生活」に様変わりしている。

私はどうしてコレを毎日欠かさず行おうなどと思ったのか。私はコレのために生まれ、コレのために死ぬのか。人はパンのみにて生くるものにあらず、なれば翻って「理想の己」の実現のみにて生くるもまた愚かなことなのではないか。おいしいパンのためにだって生きていきたい。おいしいパンのおいしさを言祝ぐ余裕もなく何が人生か。人の世のよろこびとは、人の生きる意味とは、人はどこから来てどこへ行くのか――

ただ気まぐれに「毎日やる」と決めただけの事象が、三日後には必要以上に大きな壁として取り上げられ、有名な格言まで引き合いに出されて批判され、勝手に人生を背負わされ、最後には理由も有耶無耶なまま悪者にされて私の生活から退場させられてしまう。私は「毎日やる」ことを苦手としているが、このありさまでは「毎日やる」のほうが私のことを苦手としていてもおかしくないだろう。

こんな調子だから、今日の日記、すなわち自分自身の三回目の当番にもちょっとした緊張感を持っていた。「三回目」という概念に淡い警戒心すら抱いていたのだ。

「三」を恐れるあまり、私は夕暮れと同時にこの日記を書き始めた。そうして今、存外にすらすらと書けることに驚いている。

考えてみると、二日おきなのがいいのかもしれない。私が執筆を担当した翌日は草群さんの日記を楽しみに待ち、その次の日はひじきさんの日記を読みながら「さて、そろそろ」と気力を溜めることができる。

恐らく、この「気力を溜める」という行為が、何かを続ける上では重要なのだろう。気力の充填に必要な期間は人によって様々で、どうやら私の場合は二日を要するらしい。

交換日記を始めたおかげで、いいことに気がつけた。もし次、何か人生を新たにするような素晴らしい何かを「毎日やる」と決意しそうになったら、まあ待てと自分を諌め「まずは二日おきで」と提案することにしよう……ほくほくと筆を置こうとしたとき、ふと気がついた。

そういえば手帳をつけることだけは、もう数えきれないほどの年月、毎日欠かさず続いているのであった。

コメント

  1. 三回目、無事乗り越えましたね! 私は二日間の充填期間でうっかり話を練ってしまうのが今の悩みです。なんか日記らしくならない…

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  2. 私も3日坊主という単語がどこかで頭をよぎりましたがハイペースにもかかわらず(ハイペースだから?)すんなり通過しましたね。節目節目に振り返りごはん会とかしたいですね!(すぐかこつける)

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