思い出を食べている
冷蔵庫に梨とブドウが冷えている。
梨は「稲城」という稲城市で栽培されている品種だ。
フォロワーが食べているのを見て、いつか食べてみたいと思っていたのだが、市場に出回る品種ではなく、現地に行ったとて売り切れることも多いらしい。今回は毎年のように買いに行くという職場の上司にお使いをお願いした。使えるものは部長でも使う。
形は大ぶりで肩が張って硬さがあり、したたる果汁は独特の甘さである。
梨のことは何もわからないし、積極的に買うことはないけれど、野菜果物農作物全般においてその土地でしか作られない品種には興味がある。
あと食べてみたいのは和梨の一時代を築いたという「長十郎」。品種改良によって消えゆく古い品種にもロマンを感じるのだ。一度直売所で見かけたことがあるが、こちらも栽培数は少ないので運よく巡り合えるといいなと思う。
ブドウの品種は「ブラックビート」と「藤稔(ふじみのり)」だ。
ブドウのことも何もわからないけれど(何のことならわかるんだ)、毎年ブラックビートと藤稔だけは買ってもいいというマイルールを設けて、見かけたら買っている。
日曜日に栃木に出かけた際も、道の駅で藤稔を見つけてそそくさとカゴに入れた。
なぜブラックビートと藤稔、数ある品種の中でこの2つかと言えば、思い出を食べているからである。
10年来の付き合いになるボードゲーム仲間と、合宿と称して8~9月に泊りがけで遊ぶことがコロナ禍前は恒例だった。
奥多摩のキャンプ場や湯河原の研修施設、熱海のリゾートマンションなど色々な土地へ行ったが、河口湖畔の温泉付きコテージはリピートするほど好評だった。
河口湖に向かうとき、勝沼で途中下車しようと言い出した者がいた。
勝沼は斜面にブドウ畑が広がり、ワインの醸造所がある土地だ。
カーヴと呼ばれる地下の蔵でワインの試飲を何種類も楽しむことができる。そこで気に入ったワインを合宿所に持ち込みたいというのだ。
ところで私は生粋の下戸である。
消毒用のアルコールで皮膚が赤くなるほど弱く、乾杯のコップ1杯さえ付き合えない。
試飲が死因になってしまうので、皆と行動を共にすることはできぬ。
カーヴに消えゆく仲間を見送った後は、施設の周辺を散策した。
そこに掘っ立て小屋でブドウを売る人がいた。
近づいてみると何種類も並んでいて、試食も渡してくれるし、活気のある説明もしてくれる。
その頃の私はまだジャガイモにもリンゴにも目覚めておらず、品種厨でもなかったが、知らない食べ物・レア度の高い食べ物への好奇心は昔から強かった。
よって巨峰でもマスカットでもなく、藤稔とブラックビートを購入した。
「房からぼろんぼろん落ちちゃうから輸送に向かなくて県外に出荷できないんだよね」という店主の言葉も魅力的だったし、味が大変好みだったのである。
近頃はシャインマスカットをはじめとして、甘みの強いブドウがたくさん売られているが、
ブラックビートは酸味もほどよくあり、お酒用のブドウをジュースにしたらこんな感じかなという濃い味をしている。
藤稔は、ブラックビートの親でブラックビートより甘く、酸味はおとなしいが、みずみずしいというよりはジューシーである。
親の話になったので、交配親を書いておくと
ブラックビート:藤稔×ピオーネ
藤稔:井川682×ピオーネ
どっちもピオーネ入ってんじゃねえか。ちなみにピオーネの親は巨峰だ。
合宿先に持ちこんだこの2つのブドウは、仲間にも好評だった。
フルーツを普段たくさんは食べない人もいいねいいねと摘まんでいた。
夜更けまで遊んだ次の日の遅い朝ごはんに、のどを潤す地の果物はよきものである。
楽しい夏の思い出と一緒に、この味と名前が刻み込まれたのだった。
その後、東京でブラックビートと藤稔を探してみたが、輸送が難しいと言っていただけあってなかなか見かけなかった。
ただ、ここ3年ほどは輸送技術が発達したのか、栽培技術が改良されたのか、スーパーでもタイミングさえよければ買えるようになってきたようだ。
1シーズンに何度も食べられるようになって嬉しい。
値段は店によって500円から1500円と幅が広い。
果物なので、年によっても農園によってもさらには房によっても、実の大きさ、色付きはもちろん味が違うのがおもしろい。
ブラックビートが、ピオーネ寄り(みずみずしい)だったり藤稔寄り(濃厚)だったりするのだ。
さてさてこれは私好みのブラックビートかなとわくわくしながら毎回食べている。
再び冷蔵庫に目をやり、余白のなさにため息をつく。もうリンゴの季節が始まるというのに。
リンゴの話はいずれまた。
お酒用のブドウをジュースにしたらこんなかんじ、と聞くと俄然食べてみたくなります。次にスーパーへゆくときは目を光らせてしまいそう。
返信削除私もときどきこっそりと、ひじきさんから伺った食べ物や農作物を発見してはエピソードを美味しく頂いてます。
味の記憶と品種の名前とか情報がちゃんと結びついてるのがひじきさんのすごいところですよね……わし、おいしいということしか覚えられない……
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