言語化欲
三鷹で『#レター 拳を掲げよ、天国へと掲げたアンテナのように』というお芝居を観た。
大学時代の友人が「(劇)ヤリナゲ」という劇団を立ち上げていて、その新作公演があるというので数年振りにチケットを取ったのだ。
いやあ、すごかった。
私が自分のアンテナをもって演劇を探したら、ぜったいに興味の対象にならないだろうタイトルと宣伝方針。しかし実際に観ると毎回おもしろいのである、この劇団は。
ううん、いや、けれども。「おもしろい」というと、正直なところ語弊がある。
今回は特にそうだったけれど、この劇団のお芝居はものすごくゆっくりだ。何がゆっくりかというと、登場する人間の各種刺激に対する身体的な反応と、心の動きが。これまでの経験から「これは意図されたゆっくりだろう」と推測できるにもかかわらず、上演中になんども我に返ってしまうくらいに。そして、あまりのゆっくりさに苛立ってしまうくらいに。そのくらい、とてもとても、ゆっくりなのだ。
自分が観ていて苛立つお芝居を「これおもしろいよ!」と人にすすめたら怒られる気がする。だから「おもしろい」と断言するのはちょっと気が引ける。でも、そのゆっくりさが、私にはとてもおもしろい。
そういう劇団のお芝居を数年振りに観て、やはりそのゆっくりさに苛立ち、苛立ちはさておき、やはりおもしろいとも感じた。苛立ちは苛立ちのまま、動かしがたく在るにもかかわらずだ。
おもしろいと感じる理由はいくらでも思いつく。たとえば「私は選択しないタイプの表現方法だから」だとか、「動かぬ身体は引き延ばされた時間の象徴であり、その引き延ばされた時間をおもしろく眺めるという体験が、小説の“描写”を味わうことに通じているから」だとか。
だけど、どれもしっくりこない。ずっと考えていると「もしかして、おもしろかったと思い込みたいだけで、本当はそんなにおもしろくなかったのか?」という悪魔の囁きすら聞こえてくる。いや、でもね、本当におもしろかったんですよ。自分の中で理屈を通せないだけで。
理屈を通せないとおもしろくない、ということはない。それでも理屈を通したい、つまり言語化したいと思ってしまうのは、もう文芸をやる人間の業かもしらんね。そんなことを想うお芝居でした。
このお芝居が上演された場所は、三鷹の「SCOOL」というインディペンデント・スペース。インディペンディントには独立した、自律的な、等の意味がある。が、結局「インディペンデント・スペース」がどんなスペースなのかは、インターネットでは調べてもわからなかった。もしかすると、利用方法を名称に限定されないスペース、という意味かもしれない。ああ、また言語化したい欲が出ている……。
そういう体験をした週末でした。
苛立つけれどおもしろいっていいですね。浮かぶ感想は一つの色でなくていいというのが演劇的です。ゆっくりと聞いて、能を思い出しました。機会があれば舞台観賞もご一緒しましょう!
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