詩人への期待
休日の朝はいつも遅い。今朝は輪をかけて遅く、それというのも昨晩は『酒場詩人の流儀』というエッセイ集を読みながら酒を呑んでいたからなのであった。
この御本、著者は吉田類さんだ。あの「テレビの、酒場放浪記の人」である。
酒場放浪記とは、吉田類さんが各地の酒場を回り、その酒場の紹介など交えつつ、彼が酒と肴を楽しむ様を丁寧に撮る――そういう番組だ。
私はこの番組を特別に好んでいる。とはいえ我が家にはテレビがないため、もっぱら義実家に帰省する年末年始の特番などで拝見している。また義実家もなかなかの酒好きであるからか、通常放送のうち特に心に残った回などは録画を残してくれていたりする。夕飯の後、皆が集まる居間でテレビをつけ、吉田類さんの楽しげな赤ら顔をゆったりと眺めつつ、お風呂上りのビールなど頂くのが義実家での恒例行事なのだ。
吉田類さんのファン……を名乗るもおこがましいが、メディアでちょっとお顔を拝見したり、会話の中で彼の名前を聞いたりするとニコリとしてしまう。そのくらいの、同好の士へ向ける、ゆるやかな親愛を私は彼に向けている。
だというのに私は、彼の著書を読むのは初めてなのであった。エッセイ集を手に取り、真っ先に考えたのは「この本、何を飲みながら読むべきか」ということ。
私は最終的に、黒霧島という焼酎の炭酸割りを選択した。日本酒と最後まで迷ったが、きっと楽しいであろう御本と共に日本酒を頂いては酔いが過ぎ、文字を追うもおぼつかない事態になるだろうと危惧してのことだ。私がワクでないことが悔やまれるが、致し方なし。
実際のところ、この御本は酒に親しんでいるか否かを問わず楽しむことができる。むしろ、もし初読を酒と共に楽しんだのならば、その後、素面でもう一度味わい直すべき本であると断言してもよい。
いや、私も読んで驚いた。私は吉田類さんのことを、酒場放浪記のイメージから、(実に失礼ながら)てっきり、楽しく陽気な「だけの」酔いどれ紳士であると勘違いしていた。エッセイ集を読むと、その印象が覆される。彼は正しく詩人なのである。しかも、かなり高い教養を備えた。
このエッセイ集をお読みになった同士方々は、きっと旅に出たくなり、仕事で己の住まう土地を離れたなら、出先でその地の酒を呑まずにはおれないに違いない。そして自分が幼少期を過ごした地でどんな酒が醸され、飲まれているかに想いを馳せるだろう。極めつけには、身近な酒場で酒を呑み、その日の酒について己の感じたことを文字にせずにはいられなくなる。
酒場放浪記を観ると、酒が飲みたくなる。それと同じくらい確かなこととして、吉田類さんの著書『酒場詩人の流儀』を読むと、俳句を詠みたくなるのだ。
ではここで一句……と続けられないのが、私の要らぬプライドの高さであり、経験と教養のなさである。実は格好よく日記を〆るため、ここに記す「一句」をなんとかするために数時間を費やしたのだが、不甲斐ないことに、どうにも捻りだせなかった。
どうかご容赦願いたく思うとともに、詩歌に造詣の深い方と、ぜひ酒を酌み交わしてみたくも思うのである。
詩人と酒を共にすれば、私もきっと素晴らしい句を吟じられる。そんな妄想を抱かせてくれるのが酒場放浪記であり、吉田類さんであったものだから。
番組すらちゃんと見てない私も、吉田類さんのこと楽しく陽気な「だけの」酔いどれ紳士だと思ってました。一句詠める人、憧れますね。
返信削除