幸運に祝杯

 ひとつ前、ひじきさんの日記から6日経ってしまった。むらくもやま史上、最長のブランクではないだろうか。大変申し訳ない。こんなにもぼんやりと、仕事に追われて日々を生きていたのか……と改めて呆然とする連休明けの今日である。

今日も仕事を終えてぼんやりとし、ぼんやりながらも「今日こそ交換日記を書きたい」と思いつつ帰路について数十分。まばらに人が点在する、よくある夜の住宅街にて――

ふと、首のうしろに違和感を感じた。反射的にそこへ手を遣ると、指先が何かに触れた。触れたその何かは私の指に驚いたようにわずかその身を縮め、襟首から服の中へころんと滑り降りて行った。

すべてが終わって、少し遅れて理解する。指先に触れたアレは甲虫であったと。

ざっと血の気が引く。と同時に一番上に着ていた薄手のウインドブレイカーを脱ぐ。振る。異物なし。さらに血の気が引く。神経のすべてが背筋に集中するが、悲しきかな何の気配も感ずることができない。

上着を脱いだ今、私が着ているのは肌着、Tシャツ、フリースジャケットだ。理性ある人として、屋外でこれ以上服を脱ぐことはできない。というのも家の外で脱衣しないことを前提に、長袖の肌着の上に半袖のTシャツを着ているのだ。ここでフリースジャケットを脱いだならば、あまりにも、いや、でも、しかし――

コンマ数秒のためらいを経て、剥ぎ取るようにフリースジャケットを脱ぐ。一縷の望みをかけて振る。異物なし。もう一度、五感のすべてを動員して背筋の感覚をたどる。何もない。何も……。

成人としてありうべからず姿で立ち尽くしていることを悟り、手早くフリースジャケットを着込みなおす。事態は何も進展していないが、少なくともフリースジャケット層に部外者が立ち入っていないことだけは確実となった。

いや、本当に確実か? 相手はこれだけ背筋に感覚を集中させてなお察知できない、かそけき甲虫だ。それだけ脚も細いだろう。それが私の肌、肌着、Tシャツいずれかの層の上を這っていたとして、私ごときにはとても知覚できないのではないか? もしくはすでに、かそけき彼の虫は私の背と服のどこかで潰れて儚くなってしまったのではないか――

本当ならば、いますぐ上裸になってすべての服を丁寧にひっくり返し、振り、罪なき甲虫を見出して逃がしてあげたい。とはいえこれ以上、路上で挙動不審な様を晒すことはできない。ほどよく人の目があるこの住宅街を抜ける小道には、首尾よくゆけばこの先、十数年はお世話になるはずなのだ。

私は不自然な早足で迅速帰宅し、玄関の戸を閉めるや否やすべての衣服を脱ぎ捨てた。何も落ちてこない。玄関前の廊下に落ちた衣服を一つずつ手に取り、慎重かつ素早くひっくり返して振る。何も落ちてこない。嘘でしょ!?

呆然と服を着つつ、ひょっとして最初にウインドブレイカーを脱いで振ったところで甲虫は逃げていったのではないかということに思い至り、ここまでの焦りが無為だったかもしれない事実に脱力し、夕飯のカレーを温めてしばし。

肌着の内側、その袖口から、小さなテントウムシが顔を出した。

ウワー! と窓を開け、テントウムシの這う指先を外に突き出した。テントウムシはそうするのが当たり前といったふうに私の中指を上り切り、夜闇に飛び立っていった。

自分の感覚が何もかも信じられなくなった夜。数十分にわたり不本意に暗くて狭い肌と肌着の間を這い、運よく潰されなかったテントウムシに祝杯を上げる他、無力な人間にできることがあるだろうか。失われなかった幸運な命に乾杯だ。

コメント

  1. 住宅街で一人静かに焦るやまおり亭さんを想像して、失礼ながら笑いが堪えられませんでした。好きなタイプの日記だ。テントウムシ、無事でよかったね。

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