投稿

7月, 2024の投稿を表示しています

日々は続く

うわ二週間経っとる! どうかご容赦ください、遊び呆けていたわけではないのだ。 仕事がバタついてるのはいつものことなのだが、 七月上旬に祖母が亡くなり、前後で心がなかなか落ち着かなかったというのがとても大きい。十年以上前に祖父が亡くなったときはもっとたくさん親類がいたのに、残された人間は数えるほどになってしまった。 コロナ禍もあって数年ぶりの長崎、ずっと良くないのは聞いていたから心構えはできていると思っていた。 思っていたのだけど、目の当たりにするともうダメだった。 祖母は誰からも愛されて、おしゃれだし多才だしいつもきちんとしているし威張ったところもない、身内びいきでなく本当に立派な人だった。だった、というのが過去を実感してまだ切ない、というのは置いといて、いい思い出は山ほどあるはずなのに、失ってみると後悔ばかりがよぎる。 忙しいだなんだ、コロナだなんだ、たしかに身体が弱っている相手にホイホイ会いに行くのは憚られるが、なりふり構わずに会いに行けばよかった。節目節目でかならず背中を押してくれて、いいことがあれば一緒に喜んでくれて、大人になってからは夜更かしして色んな話ができるようになって、でも住まいが離れているからそんな機会も数えるほど。 何も、何もできなかった。 まだ何も返せていない、いや、この先も返せるかどうかは怪しいが、そうじゃなくて。 残されるというのはこういうことなのだ。 もう会えない悲しみと同じくらいの重さで、情けない気持ちがずっしりと身体の底に沈む。 祖母には信念というより覚悟のような「こうありたい」があって、揺らがない芯はありつつ人当たりは朗らかなのが素晴らしいところでもあり、恐ろしくもあった。なんでそこまでできるんだろう。すぐ癇癪を巻き散らかす孫は不思議でしょうがなく、がっかりされるのが怖かった。だからずっと、祖母(祖父も)に対しては他人行儀なところがあって、なかなかべったり甘えることができなかった。 いつも朗らかで、人の悪口を言わず、どんな相手にも心を配る。 離れていても、そういう祖母を見てきたのだ。私もそうなりたいし、そうありたいと思い続けることがきっと大事だ。 私の後悔は、これからの生き方で少しずつ溶かしていけたらいい。 生きている私達の日々は続くし、立場も仕事も人間関係も山ほどあるし食事も睡眠も生きることすべてを考え続けていくのだ。ずっとひとつ...

背中で合掌

ひじきさんが文披について触れていた。定期更新に不安があるとのことだったが、安心してほしい。現在すでに七月の十五日だけれど、私はまだ二日目の文を披いている最中だ。 たしか去年も、翌年の六月くらいまで取り組んでいたのではなかったっけ……企画の主催さんが「期限はとくに定めないよ」と公言しておられるため、全力で甘えているのだった。今年も甘える予定です。日ごと順繰りにお題を消化するとしておきながら、まだDAY1のお題分しか書き上げていない参加者なんて私くらいのものじゃないだろうか。皆の希望の光として、今年もじっくり取り組んでゆきたいと思う。 そんなこんなで七月の中旬である。つい先日、私は人生で初の体験をした。クロップドトップス、いわゆる「へそ出し」の服に手を出したのだ。 私も昨年までは戸惑いがあった。こんな歳でああも肌を出す服を着たりしたら、さすがにお腹を壊してしまうんじゃないかしら。大人たるもの、いついかなるときも腹だけは温めておくべきじゃないかしら……と。 しかして、この暑さである。猛暑酷暑をゆうに超え、最近は「殺人的な暑さ」なんて言葉まで耳にする始末。とにもかくにも、大切なのは体温を上げすぎないこと。ひいては熱中症の予防。それ以外に何を気にすべきだというのだろう。 そういった気持ちで腹を出し始め、わかったことがある。 まず、腹を出すと、大変に姿勢がよくなる。私が見栄っ張りだからかもしれないが、可能であれば可能なかぎり、町中のショーウィンドウに映る自分は自分の望むような姿をしていたい。具体的には、お腹はそこそこに凹み、腹筋の筋は美しく浮き上がっていてほしい。となると自然、体幹が常に緊張するようになるのだ。これはいい筋トレになる。何につけても、筋肉、すなわちパワーがあるのはよいことだ。 そして腹を出すと、出さぬうちは知り得なかった自分自身について知ることができる。私は腹を出すようになり、露出する肌に日焼け止めを塗るようになって初めて、自分の腹のあたりにある薄い痣だとかほくろだとか、むかし怪我をしてちょっと硬くなっている箇所だとかをまじまじと見た。 この身体とは三十年以上の付き合いだ。ゆえに私は私のことを、少なくとも半分くらいは理解しコントロールしえている。そう自負していたのだけれど……どうやらそれは間違いであったらしい。私は自分の身体のことを、あまりにも知らない。 お腹だけ...

手を繋ごうか、ためらう

 7月が始まり、草群さんとやまおり亭さんがふみをひらいている。 31日分のお題に一貫した登場人物と筋道で小説を紡ぐのは並大抵のことではない。 31日分の設定を考えて読み切りを書くより楽だよという人もいるが、そういう基準じゃないんだよ。 みんなが参加します!って表明するものだから、お祭り気分には乗っかりたい(踊るタイプの阿呆)ひじきも、いいなー私もやるか?と検討するだけしたが31題は多すぎる。 でもだからこそ、書き終えたら次のイベントで楽に1冊新刊が生やせるくらいの成果になるわけだけど。 月に1個~2個ならまだしも、いくつかストックしたところで追いつかれるのは目に見えているのだ。秋になっても冬になっても終わらなかったらどうしよう。 140字のついのべでもいいし、書きやすいところだけ書いてもいいよというゆるい規約なのは知っているが、どうせならもったいないというかやるなら苦しいこじつけを楽しむのを含めて全部やりたいしなーと、無為に過ぎていった。 書きたい設定をぼんやり考える楽しい時間としては活用させてもらった。お祭りだからこそ、ふざけられるネタはある。今回の文披でなくとも、そのうちに。 ので、お二人の作品は楽しく追いかけさせていただきます。   去年の8月の日記「おばさんになっても」に、 「結婚をし、子供を産み育て、若い時ほど自由に出歩かなくなった友人は多い。 約束をするなら子を預けられるようかなり前もって、夕方には帰宅できるような距離で、遠出や宿泊を伴う旅行はもってのほか。家族の体調不良でドタキャンもあり得る。 最近知り合った人はともかく、高校・大学からの同年代の友人はそういう時期だ。」 ということを書いたが、 今度は、子連れで会うということもたまに起こるようになった。 3歳だったり5歳だったり、言葉も通じお出かけができるようになってきた年頃。預けるのが難しくなっちゃったから、子連れでもよいかという。 もちろんよい、待ち合わせの場所もお店も相手の都合に合わせよう。 ただ……ただね、私は小さい人の対応に慣れていない。 いや、ちょっと違うな。 小さい人に対応する様を親であるところの友人に見られるのが苦手でうまく振舞えない。 小さい人の相手をするのは、嫌いというわけではないし、期間限定で過ごせと言われれば過ごせるのだ。 昔は年下のいとこに付き合ったし、 今な...