なにか「よいこと」

 創作企画者雑談(仮)というスペースにゲストとしてお呼ばれし、いそいそと出向いて雑談をしてきた。私自身のことから、主催しているイベントのこと、発起人をつとめているお店のことなど……とりとめもなくなってしまいそうなお喋りを、スペース主催のうぉんうぉーさんがきちんと整え、導いてくださった。1時間くらいの配信。アーカイブもあるので作業のお供にでも聞いて頂ければ幸いです。

とはいえ、おふたりにとっては、ご飯の席で聞き覚えのある話ばかりかもしれないけれど……。

さて。

先週の日曜日に、大学時代の後輩が主宰している劇団のお芝居を見てきた。(劇)ヤリナゲの新作で、タイトルは『新しい国家のための緩やかなる反抗』だ。

こんな感じのお芝居でした。

この劇団のお芝居に行ったのは2回目で、初回の話はこの交換日記の「言語化欲」と題した日記に書いている。

今回もとてもゆっくりしたお芝居だったのだが、加えて、「息を潜めて役者の動向を見守らされているなあ、今まさに」と感じる瞬間がなんどもあった。

最初は「息を潜めて役者の動向を見守らされていると感じる瞬間がなんどもあってよかった」と書いていたのだけど、書きながら、「それって本当によかった”のか?」と疑問が出てしまい、「よかった」を削除した。

改めてじっくり考えてみると、お芝居において「息を潜めて役者の動向を見守らされているなあ、今まさにと感じる」ということそのものが、私にとってはなかなかに物珍しい体験だったのだと思う。「見守らされている」と、お芝居を見ながらリアルタイムで感じたのは初めてではないかしら。それが、最初に出てきた「よかった」の本当の中身であるようだ。

作品の感想を書いていると、感じたことをなんでもかんでも「よかった」に収束させてしまいがちだなと思う。感情が生まれたことを無批判に「よいこと」と見做してしまうというか。お金なり時間なりをかけて作品を体験したのだから、なにか「よいこと」を感じたのだと思いたい気持ちがあるのかもしれない。

前回の日記「言語化欲」で、私はこんなことを書いていた。

ずっと考えていると「もしかして、おもしろかったと思い込みたいだけで、本当はそんなにおもしろくなかったのか?」という悪魔の囁きすら聞こえてくる。いや、でもね、本当におもしろかったんですよ。自分の中で理屈を通せないだけで。

~中略~

理屈を通せないとおもしろくない、ということはない。それでも理屈を通したい、つまり言語化したいと思ってしまうのは、もう文芸をやる人間の業かもしらんね。そんなことを想うお芝居でした。

2年経っても、まだ同じようなことをぐるぐると考え続けているのが「おもしろい」。
日記に残しておくっていいな、としみじみ思う夏の日でありました。

コメント