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マニアの素質

なにかひとつのことを突き詰める、というのが私にはとても難しい。 追い込むとか、追究するとか、決まったものにエネルギーを注ぐというのが万人にできるわけではないのだと、己の性質と向き合うにつれ身にしみてわかる。 できないのだ、深く執着することも、その執着を持続することも、とことんまで知りたいと思うこと自体ができない。 長子だから自ずとブレーキを踏みがちなんだろうとか、理系の教育を受けてきたことで視点のバランスを取ろうとするんだとか、もっともらしい理由をつけることはできるが、端的にそこまでの興味がもてないんだと思う。なんか好き、なんかいいと思う、あー楽しかった。それがすべて。とことん研究職には向かないと卒論修論のときに思い知ったものだが、いかに己が現場向きか、仕事はもちろん趣味や遊びのときも日々感じている。 だってもう、身の回りにプロとかマニアがあまりに多いんだもの。 仕事柄、漫画家や小説家、イラストレーターといったクリエイターと接することはとても多いし、趣味で物書きをやっていると同様にいろんな面白い人と関わり合うことになる。 広く浅く、全体を大づかみに把握するのは立場上大切なことだし求められる方向性を肌感覚で捉えるのも得意、応答がはやいのでズレが生じた場合もぱっと修正できる、 しかしこの軽さに不安を覚え、コンプレックスを感じるのも事実。 怖がりなんだと思う。 執着して、失うのが怖い。私個人では動物は飼えないと思う。不慮の事故や病気にかからない限り人間のほうが長生きする、ということは先立たれるのが確定していて、失ったときに「ちゃんと愛情を注げなかった」と後悔するのが見えている。その後悔が怖い。外に向く矢印があまりに弱い、そのことがわかっているから、相互に深く踏み込むことに強い抵抗を感じる。 以前、創作メインで星占いしてもらったときに「糸の切れた凧」「空中戦やってる」「でもなんだかんだちゃんと帰ってくる」「なぞの辻褄合わせ力」みたいなことを言われて、なるほどなあと思った。プロとかマニアって、しっかり根っこを張ってるイメージなのだが、私は凧なのである。かろうじて糸でつながっていて、誰かが握っててくれるからぎりぎり飛んでいられるのだ。 こころもとないねえ。 こんなことを言い出すなんて、夏の疲れが出ているわ。 そう、実はこのところ、土日に台湾行ったり、日曜に作家対応で店舗に出動し...

なにか「よいこと」

 創作企画者雑談(仮)というスペースにゲストとしてお呼ばれし、いそいそと出向いて雑談をしてきた。私自身のことから、主催しているイベントのこと、発起人をつとめているお店のことなど……とりとめもなくなってしまいそうなお喋りを、スペース主催のうぉんうぉーさんがきちんと整え、導いてくださった。1時間くらいの配信。アーカイブもあるので作業のお供にでも聞いて頂ければ幸いです。 とはいえ、おふたりにとっては、ご飯の席で聞き覚えのある話ばかりかもしれないけれど……。 さて。 先週の日曜日に、大学時代の後輩が主宰している劇団のお芝居を見てきた。(劇)ヤリナゲの新作で、タイトルは『新しい国家のための緩やかなる反抗』だ。 こんな感じのお芝居でした。 この劇団のお芝居に行ったのは2回目で、初回の話はこの交換日記の「 言語化欲 」と題した日記に書いている。 今回もとてもゆっくりしたお芝居だったのだが、加えて、「息を潜めて役者の動向を見守らされているなあ、今まさに」と感じる瞬間がなんどもあった。 最初は「息を潜めて役者の動向を見守らされていると感じる瞬間がなんどもあってよかった」と書いていたのだけど、書きながら、「それって本当に “ よかった”のか?」と疑問が出てしまい、「よかった」を削除した。 改めてじっくり考えてみると、お芝居において「息を潜めて役者の動向を見守らされているなあ、今まさにと感じる」ということそのものが、私にとってはなかなかに物珍しい体験だったのだと思う。「見守らされている」と、お芝居を見ながらリアルタイムで感じたのは初めてではないかしら。それが、最初に出てきた「よかった」の本当の中身であるようだ。 作品の感想を書いていると、感じたことをなんでもかんでも「よかった」に収束させてしまいがちだなと思う。感情が生まれたことを無批判に「よいこと」と見做してしまうというか。お金なり時間なりをかけて作品を体験したのだから、なにか「よいこと」を感じたのだと思いたい気持ちがあるのかもしれない。 前回の日記「言語化欲」で、私はこんなことを書いていた。 ずっと考えていると「もしかして、おもしろかったと思い込みたいだけで、本当はそんなにおもしろくなかったのか?」という悪魔の囁きすら聞こえてくる。いや、でもね、本当におもしろかったんですよ。自分の中で理屈を通せないだけで。 ~中略~ 理屈を通...