他人行儀な本をもとめて
ものすごく久々に図書館へ行った。
読む本が手元にないわけではない。夏はなんやかんやと忙しく、忙しいと増築されがちな積読タワーが順調に高さを増した。秋は文学フリマ東京37と紙本祭5で文芸系の同人誌をいろいろ買い込み、我が家の同人誌を仕舞う棚は積載過多寸前だ。
そう、読む本が手元にないわけではない……どころか、いつも以上にたくさんの本たちが家で読まれるのを待っている。それなのに図書館へ行ってしまった。
私は、これぞという読みたい本があるときは本屋さんへ行く。本屋さんで買った本は、おおよそ未来永劫、自分のものになるのがいいところだ。自分のものになった本は、自分の好きに扱うことができる。本文に線を引いてもいいし、ぐいっと開いた状態でブックスタンドに固定してもいい。お風呂に持ち込むことすら可能だ。こういう読み方をしていると本は汚れるし痕がつくし、ときにはページがふやけたりもするのだが、私はこういう変化を味わいとして楽しんでしまえるタイプなのでなんの問題もない。むしろちょっと汚れたあたりから「自分の本」として一層の愛着を感ずるようになる気さえする。
これが図書館で借りた本となると、そうはいかない。書き込みなどもってのほかだし、読むときはあまり大きく開きすぎないよう注意深くなるし、お風呂になど近づけもしない。本屋さんで買った本に比べて、図書館で借りた本というのはどうにも他人行儀だ。
でも、私はこの他人行儀さを求めて図書館へ行くのかもしれない。「これぞという読みたい本」ではない本に触れたくなるときがあるのだ。図書館のおおよその空間には、最新刊でも今話題の一冊でもない本が並ぶ。けれど整然と並び立つ本たちの背表紙の中には、目にするや否や「これは私の読みたい本」と確信できるものが確かにある。発行年も、作者の住まう地も、流行も越えて、「今の私が見つけた、今の私が読みたい本」――そんな本を手に取れたときの喜びは、なにものにも代えがたい。
ともあれ、今日は図書館へ行ったのだ。
書架の間を徘徊し、探偵小説をいくつか借りた。ジェイムズ・ラヴグローヴという作家が手掛けたシャーロック・ホームズ&クトゥルフのダブルパスティーシュを2冊と、ジーン・ウルフの読んだことがないものを1冊だ。いずれも発行は早川書房だが、ジーン・ウルフのほうは新☆ハヤカワ・SF・シリーズというレーベルから出ており、このレーベルは新書サイズで二段組という愛らしい体裁を採用している。本文用紙がほかの本よりちょっと黄色がかっているところもまたキュートだ。
手に取るたび、いつかこんな本を作ってみたいものだと思わされる。新☆ハヤカワ・SF・シリーズ、おすすめですよ。
他人行儀という言い方になるほどとうなずきました。
返信削除図書館で本を借りる、いいですよね。最近はもっぱらリクエストした本を借りて返すだけの場所になりつつありますが、あの森を探索して今の自分にしっくりくる一冊を見つけて持ち帰るも得も言われぬ楽しさ、味わいに行こうかな。