おじさんと平和
夏の宵が好きだ。
思わぬ暗さにはっとする秋、冴え冴えとした冬、霞がかった春、そのいずれとも違う、夕涼みの紺青。どんな灼熱の日であっても、陽が沈めば多少暑さがやわらいで、ちょっと出歩こうかという気になる。立ち込める煙を貫く手持ち花火、つい鼻をひくつかせてしまう火薬のにおい、ガードレールの根本で揺れるねこじゃらしのブーケ。そんな今日は、ついこの間まで「カットスイカみたいだな」と思っていた月がずいぶん太って大変明るかった。
好きなものといえば、楽しそうなおじさんを見守るのも大好きだ。
現在の勤め先は大変古いビルを一棟まるまる使用しており、そのぶん自由がきくので専務(めったに笑わないけど渋くていい声のおじさん)がよく愛犬たちを連れてくるという。以前から噂には聞いていたが、金曜日に出社したらばうばう聞こえたので「とうとう来たな」と思いつつ普通に仕事をはじめた。
上司に「せっかくだから会いに行こう」と連れて行かれるなり激しく懐かれて眼鏡がベロベロになったりもしたのだが、本題はその日の夜である。
外が暗くなる頃には社内の人数はずいぶん減って、それだけ空間にゆとりができる。日中のおもてはあまりに暑くてそうそう出歩けず、なので遊びに来ている犬たちもお散歩にいけなかった。だから人の減った社内をぶらぶらしていたらしいのだが、そのうち不意にミニマム鬼ごっこが始まった。
事務所にはすこし距離をあけてふたつ並んだ出入り口があって回遊することができる。この日ぐるぐる回り始めたのは件の専務と愛犬の黒いラブラドールレトリバーであった。間合いをはかる剣豪のごとく互いをの様子をうかがって、飼い主がわっと顔を出すと犬はピャッと身を翻す。
普段の姿からは想像もつかない、爛々と目を輝かせながら横にスライドするおじさん。あんな楽しそうなおじさん、滅多に見られるものではないだろう。
そのとき私は廊下でひとり軽作業の真っ最中で、降って湧いた供給に戸惑っていた。えらいものを見せられている、最高だけどどんな顔したらいいんだ。テンション上がりすぎてニヤニヤが漏れ出すので、微笑みで偽装するほかない。内心、というか世界から皮膚一枚隔てた中身は大爆発であった。
私は大変よい職場に巡り合ったらしい。
さて翌日。
私はあるフレンチ中華の店の鶏白湯塩ラーメンが大好きなのだが(ラーメン詳しい人はきっとこれだけでわかる)、そこのサービスのおじさんが素晴らしいので近くに出かけるとつい食べに行ってしまう。
ラーメンはもちろん美味しい。運ばれてきたラーメンにおじさんの愉しげな「おすすめの食べ方」トークがついてくるからなお美味しい。毎度おきまりのセリフなんだけど、「おいしいよ、めしあがれ」の気持ちが言葉の端々にあらわれていて最高なのである。
この日も私がスープの一滴まで舐め尽くしてひと息ついていると、にっこり「綺麗に召し上がりましたね」と現れた。「今日のスープはクリーミーな仕上がりでした。たまに、『これは』というようなベストバランスの日がある」と嬉しそうに教えてくれる。実は少し前にその最高のスープに遭遇していた私。そのときのことを絶賛とともに伝えると彼はますます破顔して、「またいらしてください」と声を弾ませたのである。
これよ、これこれ。
腹の中のラーメンが、また一段格上げされた瞬間であった。おいしい体験というのは、味覚だけで味わうものではないとしみじみ思う。
とかく悪者にされやすい〈おじさん〉。横柄だったり肩身狭そうだったりいろんな人がいるが、おじさんが楽しそうにしていると殊更平和を感じる。守るべき対象として女子供や年寄りが挙げられることが多いけれど、おじさんの笑顔だって守られてしかるべきである。というか、みんな等しく大切にされるべきだし、大切にしたい。そのうえで、私の心の栄養のためにも一人でも多くのおじさんに愉しい茶目っ気を発揮していただきたいものである。
くさむらさんのニッコリ顔が目に浮かぶよう…!
返信削除わんこが遊びに来る職場いいな〜。私は楽しそうな「おじいさん」を見守るのが好きなのでその予備軍にも目を向けてみようと思いました!
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