わからないことの手触り
暦どおりの四連休は、ひたすらのんびりして過ごした。
まともな外出といえば、朝イチで用事をすませたついでに渋谷で遅い朝食を食べてそのまま散歩で遠回り、代々木公園で薔薇や寄せ植えの庭をぶらーんと眺めて帰った一回きり。あとはこまごまと家事をしたりイベント前の宣伝をしたり、ただ食べて飲んで寝て起きて、休める限り休んだ。
お休みに予定がないと不安な方からしたら逆に寝込みそうな過ごし方だが、家にいると決めたら徹底的に家にいたいので大変幸せであった。出かける日は予定をまとめてフルで出かける。用事はひとかたまりにして、まとまった引きこもりタイムを確保したい。
ずっと誰かにそばにいられると死んじゃうのである。うさぎさんの逆。
連休最終日、雨は降るわ気温は下がるわで、何がゴールデンださむいさむいと布団にくるまって読書しかしないことに決めた。
わあ贅沢。
まるで無音というのもな……と考えプレイリストを眺めるがいつもと同じも面白くない。作業用BGMといえば(作業などしないが)YouTubeか、と思い至りそれっぽいのを探すがどいつもこいつも眠くなるようなリラックス音楽ばかりで昼寝する気しかしない。
ちょっと路線を変えて、映画とかテーマパーク系にしてみたらちょうどよかった。べつに落ち着かなくていいのよ、ちょっと浮足立つくらいで。
というわけで、今日はディズニーリゾートのパーク内BGM縛りにしました。
バタバタしてるときは悩むことすら厭うてしまうので時間があるときはいろいろ試すよいチャンス。
飛浩隆『零號琴』。
本日読了した小説のタイトルである。
読み終わるのにずいぶん時間がかかった。年単位でかかった。中断しては間があいて、思い出しながら続きを読むからまた時間がかかる。なにしろ辞書みたいなハードカバーなのだ。合間に読もうと持ち歩くにはでかすぎる。
それでも私は紙の、ハードカバーがよかった。カバーのインパクトもさることながら、本体の装丁がめちゃくちゃ渋くてかっこいいのだ。あと長い小説は特に、ざざっと戻っておさらいするのに紙のほうが都合がよい。辞書もいまだに、紙で引くほうが早いタイプです。
話がそれた。
SF作家が描きだす、ものすごくスケールが大きくて好き放題やる話。
都市レベルのでっかい集合鐘を演奏するぞ、資本も職人もかき集める大プロジェクトは表も裏も事情に事欠かないが、これはそもそも一体誰が何のために作ったんだ、だいたいこの準備は期日に間に合うのか?
という、私がまとめると大変俗っぽいあらすじになってしまうのだが、怪獣とかヒーローもののエッセンスとパロディがふんだんに盛り込まれており、
「緻密に編まれた壮大な遊び、ただし余人に理解できるかどうかは謎」
っていう、レベルの高い遊びを兼ね備えた物語で、なんかもうすごすぎて笑ってしまう。
多分、すべてのスケールが逸脱してるのだ。ああこれがSFだあ、と大変うれしく読み終えた。
さて、ぶつ切りで読んだせいもあるが、この小説のなかで何が起きて何が明かされたのか、わかりやすく開かれた部分は私にもわかったのだが、何言ってんだかよくわからないけどなんか面白いぞと思いながらずっと読んでいた。音楽を奏でることが最終目標なので、音にまつわる物理現象の描写がいろいろと登場するのだが、なんでそうなったかわからないものだらけで、でもふんわりとイメージは掴める、気がする。読み進めることで「わからない」の解像度や見え方が変わったりもする。
これが小説の楽しいところだなあ、と思う。
わかりやすく説明する必要のある場面もあるだろう、でも小説って必ずしもそうじゃない。描写そのものを楽しむというか、文字の並びを鍵にして呼び起こされるイメージが人によって違うけど一定の共通項をもつこと、よくわからないほうが面白い場合が往々にしてある。
この「わからない」に対する姿勢は大きく分けて二つあると思っていて、よくよく考察して解釈を加えるタイプと、そのままありのまま飲み込むタイプ。私は圧倒的に後者で、なんでも「そういうもんか」で済ませてしまうし文章自体を面白がるから持論とか独自の解釈が生まれにくい。なんなら感想文だってへたくそである。だから本当に、二次創作には向かないことを思い知るのだがそれはさておき。
もともと巨大な楽器を演奏する大イベントの話が、土地の歴史、礎を揺るがす一大事に発展していくまでに仕組まれた出来事と巡り合わせ、膨大な情報を演算しうる人と物のつくりをひたすらに語って聞かせる、SFってこれだからやめられない。
しばらくまとまった読書の時間をとれずにいたけど、また頭の上に疑問符を並べながら「わからない」を楽しみたいものである。
草群さんがのんびりできていると安心します。零號琴、読んでみたくなりました。「わからない」けど、なんか楽しくて読み進めてしまう本てありますよね。
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